2016年10月18日

割とどうでもいい豊洲移転の揉めっぷり

築地の豊洲移転が大揉めに揉めている。まあ酷い話だとは思うし、どうしてこんな酷いことになったのかと不思議にも思う。それでも、さほど切実な怒りを感じないのは、私自身が東京都民じゃないせいもあるが、もう少し他に思うところがあるからだ。

ざっくりと言い切ってしまえば、別に築地なんか無くなっても構わない。そんな思いがある。もっと言えば卸売市場という存在自体が、遠からずその役割を終えるのではなかろうかと思うのだ。

「築地は単なる建物ではない、築地を失うことは築地という街を失うことであり、築地に象徴される日本の食文化を失うことだ」と言われる。そのこと自体に異論は無い。無いけれど、第一に、そもそも築地という街の現在の様相は、必ずしも、というか全く、当初の設計意図に沿っていない。もともと築地市場は巨大な「駅」として設計されたもので、トラック輸送は想定していなかった。要求される機能の変化にハードウェアが対応しないまま、どうにかこうにかやりくりしてきたのが実情だ。そうしたブリコラージュの結果として今の築地は在るわけで、いかなる形であれ、それを「お上」の計画でどうこうしようという発想は意味が無い。

第二に、築地に象徴される日本の食文化は、既に風前の灯と言って良い。もちろん、それを大切に思う人の少なからず存在することは理解するが、残念ながら、いずれ消えゆくのが世の移ろいの必然ではなかろうか。

第三に、これが核心的な理由だが、むしろ築地に象徴されるのは「ダメな日本の漁業」なのだと思う。まともな資源管理のもとで持続可能な漁業を目指せば目指すほど、自ずから「仲卸」という業態は廃れていく筈だ。

日本の漁業がダメだという話は以前にも書いたが、要するに資源管理という発想がない。基本的には今でもそうだ。漁に出て、そこにいる魚を手当たり次第に獲りまくる。獲ってどうするかを考えてない。そこで仲卸だのセリだのが必要とされる。全ての魚種でとは言わないが、このプロセスが無駄なのだ。ノルウェーでもニュージーランドでもいいが漁業先進国(というか日本以外のほぼ全ての漁業国だ)では、厳格な資源管理の下で各漁船ごとに漁獲割り当てが決められている。充分に持続可能な形で漁獲枠を決めているから、海に出れば必ず魚はいる。各漁船ごとの割り当てだから、急いで獲る必要はない。例えるなら、これは倉庫に在庫を取りに行く感じに近い。だから、漁に出る前に買い手も値段も決まっていることが当たり前になる。

日本に輸出されるノルウェーのサバは実に美味しい。もちろん美味しいのには理由があって、最初から日本に輸出することが決まっていて漁に出るのだ。大きさ、時期、脂の乗り具合などを勘案して、最も高い値が付くように獲る。日本人の好みに合うサバだけを選択的に獲っている、とも言える。港に持ち帰ってセリにかける、なんて無駄なプロセスも無い。獲ったサバは即座に船の上で冷凍される。美味しいに決まっているのだ。ノルウェー産サバの輸入価格は銚子で水揚げされるサバのざっと3倍から4倍の値段だ。値段の差が、すなわち日本の漁業のダメさ加減だ。

豊洲移転の揉めっぷりを「割とどうでもいい」と感じる所以である。市場というのは要するにシステムなのだから、必ずしも建物というハードウェアを必要としない。
posted by 非国民 at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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