2017年04月21日

物語のチカラ

カーレド・ホッセイニ『そして山々はこだました』読了。

良い話を読んだ、と素直に思う。長生きして良かった。

まずもって本当に上手い。これほどの奥行きを持ったエピソードの集積をきっちりと紡ぎ上げ、しかも読み難いということがない。大変な力量だと思う。これが三作目だというから凄い作家だ。作家になる前は医者だったというから並みの才能ではない。そしてなお凄いのは、上手いだけではないという点だ。奇抜な設定や妙に凝ったプロットなどの小手先は一切なく、ひたすら物語そのものが持つ圧倒的なチカラに引き込まれる。これこそが小説を読む愉悦。

絶対に読んで損はない一冊だが、早川書房さんは増刷するつもりが無いらしい。日本では流行らないのか。そんなこともないと思うのだが。ちなみにアメリカではべらぼうに売れたらしい。確かにアメリカ人が悦びそうな話だ、とは思った。あの人たち、家族の話が大好きだからなあ。
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2017年04月17日

消えた本

紙の本でも消えることがある。

せっかく買った電子書籍のデータが何処かへ消えてしまった。。。というような話は、ちょっと前までよく耳にした。若い人には信じられないかもしれないが、私らの年代や、もっと上の世代だと、そこそこ「ありがち」な話だったりする。それが嫌で、という訳ではないが、私は専ら「紙の本」派だ。

だが今回はその「紙の本」が、何処かへ消えてしまった。全く理由が分からない。

少し前に、アフガニスタン出身の作家カーレド・ホッセイニの『千の輝く太陽』を読んだ。これが何とも凄い傑作で、久々に「長生きして良かった」と思える読書体験だった。でもって今は同じ作家の『そして山々はこだました』を読み中。下巻に差し掛かって益々面白い。もっと前の作品も読みたくて仕方がないのだけれど、すでに絶版のようで、早川書房には強く再考を促したい。

そういえばヤスミナ・カドラがアフガニスタンを舞台にした小説を書いてたよなあ、たしか『カブールの燕たち』。まだ読んでないけど結構前に買って積んであったはず。そう思って机上に聳え立つ未読本の山を仔細に探るも、これが無い。

絶対に買ったはずなんだけど、どこに消えたのだろう。全く分からない。そして、どんなに探しても無い。ひょっとして、実は読んでいて、それほどとも思わず既に手放したとか。いやいや、いくら何でもそこまで忘れるか。

仕方が無いもう一度買うかと気軽に考えたはいいが、これまた今では入手が難しいのであった。どうも初版しか出ていないようなのだ。ネットで調べると紀伊国屋さんには在庫がなく、丸善さんを当たると千葉&東京では唯一多摩センター店に在庫あり。結局仕事帰りにとてつもなく遠い寄り道をして買って来た。

もう何やってるんだ俺。そして早川書房は再版を出せヤスミナ・カドラだぞ。
 
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2016年10月07日

安直な役割期待が残念

吉村満壱『バースト・ゾーン』を読了。

巷で評判だった『ボラード病』がそれほどでもなく、正直言って「緩い」印象だったが、こちらは凄い。いや、凄気持ち悪い。ていうか気持ち悪い。でも凄い。よく練られた設定に緻密な描写。仕上がりはヘヴィーな純正SFで、さすが早川書房。

間違いなく傑作ではあるんだけど、ちょっと気になった点がひとつ。話の流れが、あまりにも男に都合よく出来すぎてはいまいか? 中盤ぐらいまで読み進んだあたりで気になり始め、最後まで引っかかったまま読み終えた。読み終えてもやっぱり思う、男どもに甘くはないか?

話の核心に直結する部分であれば、むしろ気にならなかったのかもしれない。そうではなく、プロット上の必然とは言い難いところで、あまりにも男に都合よく出来すぎているように感じるのだ。男どもの身勝手な欲望こそが世界を破滅へと至らしめる、という作品ではない。そう読むことは難しい。であれば、男どもの身勝手な破滅願望を安易に肯定している、ということになり得まいか。

細かいといえば細かいことなので、気にせずに作品世界を楽しめ、とも思うが、存外こういうのって気になりだすと止まらなかったりしませんか?
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2015年02月06日

変わらないカタチ

今さらながら巷で話題になっていた白井聡『永続敗戦論』を読む。強烈な既視感とともに。

著者本人が何度も「既に何度も繰り返し論じられて来たことである」と言う様に、ほぼ全編を通じて新たな知見はなく「その話はもう何度も聞いた」感が湧き続ける。

だが一方で提起された問題が解消したわけでは全く無く、問い続けること自体は実は今でも必要なのだ。そういう意味では、こんな論者がいた方が良い。まして状況は悪化する一方で、倒錯した「この国のカタチ」から目をそらしたまま安穏と生きる余地は殆ど残されていないのだから。

私たちはいつまで無能な政府に耐える事が可能なのだろうか。
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2015年02月05日

究極のハードSFは意外にしっとりした読後感。

グレッグ・イーガン『ディアスポラ』を読了。ハヤカワ文庫2005。巷のレビューには「SF史上最も難解な作品」だの「イーガンファンよ喜べコレは今までで一番読み難い」だのと相当な言われ様だが、本当にその通りだ。例えて言うなら、ミモレットとか鰹節みたいなジャンルなのかな。極上品ほど堅い。

読み難い理由はいくつかある。例によって些かひねくれた構成もさることながら、未来の技術や概念が全く説明なしにいきなり出て来る。きっとこういうことかと推測しながら読み進む事になる。簡単に外挿出来るほど近い未来の話ではない、にもかかわらずだ。それから個人的には数学的な思弁について行けないというものつらかった。リーマン空間とかフーリエ変換とか、ごく当たり前に出て来るんだけど、もう覚えてないんだよ本当に。ああ情けない。

なんだかんだ言って、私自身はほぼ一月ほど掛かってコレを読み通した。読み通した自分を「軽く凄い」とさえ思うが、でも一方で、間違いなくそれだけの価値はある。読んでよかった。

一つのテーマを追い求めて行くというスタイルではなく、むしろ様々なエピソードの集積として本書は成立しているのだけれど、生命というものの有り様に関するイーガンの考え方がとにかく独特で面白い。特筆すべきは短編「ワンの絨毯」にも出て来る<オルフェウスのイカ>。自己触媒的に生成し続ける巨大分子が自然発生的なチューリングマシンと化し、その中でソフトウェアとして進化し意識を持つに到った<生命>。外界の物質的な世界とはいかなる意味でも関わりを持たないこうした<生命>が、本書では奇特な例外としてではなく、むしろ普遍的な一般性とともに描写される。硅素生物がどうこうという話とは、色んな意味で次元が違い過ぎる。

異質な生命とのコンタクトという点では『ソラリス』にも通じる点があるけど、本書の場合、そもそも私たちの馴染んでいる「肉体人」がほぼ登場しないので、世界観としての類似は薄い。『ディアスポラ』は肉体人のコピーとしてではなく最初からソフトウェアとして産み出された主人公の、宇宙の果て(無限に存在する可能世界の中の一つの果て)にまで到る冒険譚だ。

長い長い(の200乗ぐらいか)旅の果てに突如訪れるエンディングの味わいが、とにかく良い。驚愕のどんでん返しではなく、むしろあっさりした終わり方ではあるのだが、全く予想していなかった結末であるにもかかわらず、ああやっぱりこれ以外には無いよなあ、と腑に落ちる。コンタクトしないで終わるファーストコンタクトもの、というか、もはや何をもって「コミュニケーションの成立」とみなすかが問われる次元にまで到る旅だ。些か煙に巻かれた感はあるが、そのしっとりした読後感は、内容的にはほぼ無縁ながら安部公房の『密会』に近いと感じた。

唯一にして最大の不満は、こんなに読み難くする必要があったのか、という点だ。
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2014年12月12日

七千年の孤独

グレッグ・イーガン『順列都市』を読了。これは凄い。

SFは結構好きで、生半可ながらも結構読んでいるつもりだが、この作家の事は知らなかった。こんな凄い作品を何で知らなかったんだろう。でもまあ、生きているうちに読めて本当によかった。

遠山啓の『無限と連続』という本が岩波新書から出ている。岩波新書では珍しい数学の本だ。私が高校生の頃、ということはもう30年も昔だが、当時既に名著と言われていたから、数論の世界では古典的なテーマではある。

さりながら、純数学的な意味における「無限」を突き詰めたSF作品はごく少ない。『順列都市』は、その数少ない中にあって、紛れもなく傑作だ。ただし読み難い。端的に言って『カラマーゾフの兄弟』ぐらいには読み難い。正直に言うと、私は二度読んだ。

同じ本を二度読みするのは、まあ無くはない。が、読み終わってすぐに「もう一度読まねば」という気にさせられたのは、多分初めてだ。それぐらいの濃さがある。思弁の緻密さもあるが、明らかに意図的と思われる構成の難解さ、プロットの拡散具合について行けず、一度目はよく分からないままに読み続けた。ところが、よく分からないながらも「今とてつもなく凄いものを読んでいる」という事だけは分かってしまったのだ。珍しいパターンだと思う。そしてもう一度読み、やっぱりコレは凄いのだと確信する。「この宇宙」が終焉してもなお存在し続けるという掛け値なしの「不死」、ここまでの無限を描いた小説を他に知らない。

大雑把なジャンルとしてはサイバーパンクの系譜に入るんだろうけど、作者の強靭な想像力は明らかに「サイバーパンクのその先」に達している。「デジタル情報としての意識」を極限まで追求し、問い詰めた芯に残るのが、あら何と不思議、削ぎ落としても落とし切れない人間の「業」の哀しさ、切なさだったりする。このあたりはフィリップ・K・ディックの味わいに通じるのかな。

実は1994年の作品だったりするのだが、今からでも絶対に読むべき。記事タイトル「七千年の孤独」が何を意味するかは、読めば分かる。
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2014年04月23日

「持たざる国」の運命

片山杜秀『未完のファシズム』を読了。新潮社2012。

第一次大戦に人類は未曾有の総力戦を見た。もはや戦争は戦術や兵の錬度ではなく物量が勝敗を決する時代になったのだ。「持たざる国」日本はいかにして「持てる国」アメリカに対抗し得るのか。様々なアプローチとその破綻へ至る諸相が分かりやすくまとめられている。

「持たざる国」は総力戦をやってはいけない、というのが第一次大戦後の日本陸軍では主流的な考え方であったようだ。局地的な短期戦で圧勝して早期講和という例の戦略ですが、相手も戦略を練る以上、もちろん成立しませんでした。

石原莞爾の構想は、まず満州を押さえて、日本を「持てる国」にしてからアメリカと張り合うというものでした。彼の世界最終戦論では日米の決戦が1970年頃に設定されています。それまでに日本を「持てる国」にするという戦略です。もちろんこれも成立しませんでした。日本を「持てる国」にしてから戦争しようという構想そのものが必然的に戦争リスクを高めてしまうからです。「持てる国」になろうとすればするほど「持たざる」うちに戦争に追い込まれやすくなる。

結局「持たざる国」は精神力を唯一の頼みとして破滅へと向かうしかない。行き着くのは玉砕という哀しき必勝哲学です。

分かりやすい本なんだけど、ちょっと分かりやすくまとめ過ぎたかな、とも思う。石原莞爾について言えば、少なくとも一時期の彼は満州を利用するだけでなく「五族協和」の理想を本気で希求していた節がある。にもかかわらず現実に行ったことは侵略と植民地的収奪以外の何物でもなかった。その不整合をどう考えるのか、もう少し掘り下げて考えてみる必要はあると思う。
 
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2013年09月19日

秋の夜長に首縊り

「8月は割とヒマだから。。。」とか言って同志やきとり+黒木氏と杯を傾けたのが8月の10日。以来、なんだか分からぬうちに細かい仕事が舞い込んできて、あれよあれよと気がつけば昨日まで全く休みなしの働き詰めと成り果てた。

漸く少しは余裕ができ、いつの間にか夜も涼しくなって、さては読書の秋とばかりに取り出したるは何の因果か横溝正史『病院坂の首縊りの家』。秋の夜長にミステリーと格好つけるには、いささかズレているような。

こういうところが「奇人」扱いされる所以なのかと軽く自覚する。
posted by 非国民 at 22:24| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月11日

下層民の生き方について

リジー・コリンガム『戦争と飢餓』を読了。河出書房新社2012。食糧をめぐる戦いとして第二次世界大戦を俯瞰した力作である。さしてマニアックな分野とも思えないが4500円。やはり本は高くなる一方だ。

食糧自給率を国単位で考えることの愚かさを改めて思う。少なくとも私にとってはそうだ。自給してなお余りあるほどの資源大国でなければ、いずれにしても戦時下では誰かが飢える。飢餓を植民地や占領地に輸出する場合もあれば、国内での搾取を強化する場合もあるが、私のような都市下層民に充分な配給が廻って来る可能性は甚だ低い。

日本の自給率はカロリーベースで4割程度と言われる。カロリーベースで考えること自体がそもそも無意味なのだが、それはひとまず置くとしても、仮にこの自給率が5割、あるいは6割になったところで、やはり戦争になれば私のところには廻ってこないと考えるべきだろう。

都市下層民の食糧安全保障は「いかにして戦争を回避するか」に尽きる。
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2013年05月02日

片付けられない男が本の山に埋もれて

五野井郁夫『「デモ」とは何か』を読了。NHK出版2012。結構面白いのだが、著者は1979年の生まれだから実は私より遥かに若い。自分よりも若い人から教わる機会がめっきり増えて己の馬齢を自覚する。

何度か岡崎京子が引用されていて軽く驚く。たしかに彼女の作品は同時代の資本主義と欲望のカタチを正確に記述していて、たとえば本書が言及している『東京ガールズブラボー』や『ヘルタースケルター』は、いずれもそれ自体が秀逸な1980年代論とさえ言える。おそらくは実感としては80年代を知らないであろう著者にとって、当時の雰囲気を知るための資料でもあるのだろう。

そんな流れで『危険な二人』を読み返そうと思ったのだが、これがどこを探してもない。捨てた筈はないのだが、さして広くもない家のどこにも見あたらない。誰かに貸して忘れてるのかなあ。

posted by 非国民 at 06:50| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする