2013年07月11日

下層民の生き方について

リジー・コリンガム『戦争と飢餓』を読了。河出書房新社2012。食糧をめぐる戦いとして第二次世界大戦を俯瞰した力作である。さしてマニアックな分野とも思えないが4500円。やはり本は高くなる一方だ。

食糧自給率を国単位で考えることの愚かさを改めて思う。少なくとも私にとってはそうだ。自給してなお余りあるほどの資源大国でなければ、いずれにしても戦時下では誰かが飢える。飢餓を植民地や占領地に輸出する場合もあれば、国内での搾取を強化する場合もあるが、私のような都市下層民に充分な配給が廻って来る可能性は甚だ低い。

日本の自給率はカロリーベースで4割程度と言われる。カロリーベースで考えること自体がそもそも無意味なのだが、それはひとまず置くとしても、仮にこの自給率が5割、あるいは6割になったところで、やはり戦争になれば私のところには廻ってこないと考えるべきだろう。

都市下層民の食糧安全保障は「いかにして戦争を回避するか」に尽きる。
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2013年05月02日

片付けられない男が本の山に埋もれて

五野井郁夫『「デモ」とは何か』を読了。NHK出版2012。結構面白いのだが、著者は1979年の生まれだから実は私より遥かに若い。自分よりも若い人から教わる機会がめっきり増えて己の馬齢を自覚する。

何度か岡崎京子が引用されていて軽く驚く。たしかに彼女の作品は同時代の資本主義と欲望のカタチを正確に記述していて、たとえば本書が言及している『東京ガールズブラボー』や『ヘルタースケルター』は、いずれもそれ自体が秀逸な1980年代論とさえ言える。おそらくは実感としては80年代を知らないであろう著者にとって、当時の雰囲気を知るための資料でもあるのだろう。

そんな流れで『危険な二人』を読み返そうと思ったのだが、これがどこを探してもない。捨てた筈はないのだが、さして広くもない家のどこにも見あたらない。誰かに貸して忘れてるのかなあ。

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2013年04月16日

言葉遣いが気になる

原克『身体補完計画 -すべてはサイボーグになる-』という本を読み途中。青土社2010。著者の名前に見覚えはないが、面白そうなタイトルだし、青土社だし、ということで購入。

ところがこれ、なかなかすんなり読めない。内容的には充分に興味深いのだが、どうにも文体が私のノリに合わないらしい。「多言は要しまい」というのが著者の口癖らしく頻出するのだが、その度に軽くシラケる。何なんだろうなあ。

「微分」という言葉も好きなようで、随所に現れる。「微分的」という言い方もやたらと出て来る。ところが、本書におけるこの「微分」という言葉の使い方が、明らかにおかしい。私の知っている微分は、高校の数学で習った解析学の一手法だが、最近の人文科学では全く違う意味で使われるのだろうか。

些細なことだが、こういう言葉の使い方が引っ掛かって、全体の論旨そのものさえ怪しく感じられる。ちょっと損をした気分だ。

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2013年02月15日

イスロマニア必読

石原俊『近代日本と小笠原諸島』を読了。平凡社2007。<移動民の島々と帝国>というサブタイトルに惹かれて買ったが、ちょっと高い。定価5000円。

本というものはいつの間にか随分と高くなったように思うのだが気のせいだろうか。去年の暮れに読んだ駒込武『植民地帝国日本の文化統合』なんて8200円もした。稀覯本じゃあるまいし、本一冊八千円はいくらなんでも高すぎると、あなた思いませんか。私の興味が以前にもましてマイナーな領域へと傾倒しつつあるのかな。

とはいうものの、この『近代日本と小笠原諸島』、間違いなく五千円は安いと言える破格の面白さだ。充実した内容は濃厚で、イスロマニアならずとも読んで損は無い。

元々は無人島だった小笠原諸島の19世紀から戦後にまで到る、それも実際の住人に焦点を当てた通史は、先行研究も殆ど無くそれだけで貴重だと言える。また、行政文書のみに頼ることなく、フィールドワークを通してオーラルヒストリーを丹念に拾い上げる手法は、歴史社会学としても手堅い。

入植者、逃亡者、海賊、時には漂流者さえも巻き込んだ得体の知れない移動民の生き様は、それ自体がとてつもなくスリリングであり、「私らは海賊の子孫」という意識すら爽快である。そこには、定住農耕民の文化を基層とした日本帝国との、目も眩むような隔絶が息づいている。法の臨界領域における彼ら歴史は、単なる「周縁」ではなく、帝国の根幹をも脱臼する起爆剤なのだ。

「国境」の隙き間を軽々と移動する人々の自律に触れる時、「固有の領土」などという言説の虚妄なることを改めて思い知る。
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2012年04月24日

記憶の底の難解

吉本隆明の死後、多くの論客が自らの吉本から受けた影響について回想している。中には私よりもずっと若い人までいたりして、「ほほう、こんな人まで」と少なからず驚いた。驚いたのには理由があって、私自身は吉本隆明から殆ど何の影響も受けていないからだ。

いや、ここは正確に白状しておこう。私には彼の書く日本語が全く理解出来なかったのである。

最初に読んだのは栗本慎一郎との対談『相対幻論』だったか。私が中三のときに出た本で、読んだのは高校に入ってすぐの頃だと思う。当時『構造と力』と並んで、少しばかり話題になっていたかと記憶する。これは対談だから口語体だし、一応はちゃんと読めた。まあ『構造と力』が読めなさ過ぎた、というのもあるが、内容的にも割と面白かった。しかし、その後の高校生活で何故か私は吉本隆明にハマることなく、栗本慎一郎の著作を片っ端から読むことになる(*1)。対談の中では、どちらかというと栗本の方が押され気味で、吉本は冷静に正論を語っていたのだが、私としては、むしろ吉本に既成アカデミズムの権威性のようなものを感じてしまったのかもしれない。

次は大学生の時の『共同幻想論』。まあ有名だし、何となく<基本文献>ということになっていたので、やっぱり読んどくか、みたいな感じだ。角川文庫で出ていた「増補改訂版」の帯には「分かりやすくなって再登場」とか何とか書いてあったが、私には全く分からなかった。途中からは、ただただ苦行のように文字列を目で追い、機械的にページを捲っていただけのような気がする。

そして最後に、いつ読んだのか覚えていないが『マス・イメージ論』。これも全然分からなかった。何が言いたいのか判然とせず、むしろ、何も言っていないに等しいのではないか、というのが漠然とした私の印象だった。

早いもので『共同幻想論』を読んでから20年以上が経つ。その間に私が賢くなったという可能性は残念ながら甚だ低く、従って、今読んでもやはり分からないのだろうなあと思う。


*1 まだ栗本が発狂する前で、『反文学論』あたりまでは結構スリリングなものを書いていたのだ。
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2011年11月30日

「生き方」を読む

ちょっと前に読んだ堀江有里『「レズビアン」という生き方』。新教出版社2006。副題に「キリスト教の異性愛主義を問う」とあり、自身レズビアンを公言する著者は、一方で日本基督教団に属する牧師でもある。出版社自体も「そっち系」だ。

カミングアウトした同性愛者を聖職者に任命するキリスト教の教団は現在でも多くはない。カトリックなら言語道断であろう。日本基督教団は、その数少ない例外の一つである。それでもなお、レズビアンであり同時にキリスト者として生きることは、簡単ではない。むろん教団の外でも簡単ではない訳だが。

キリスト教の異性愛主義を問う問題意識は、敷衍すれば、教会と信者との権力関係を問い直すことにも繋がる。あるいはまた、キリスト教に内在する女性差別(もっと言えば女性蔑視)を問い直す作業にも。

もとより仏教徒である私が論評すべきことではなかろうが、仏教も少なからず同様の問題を抱えているからには他人事とも言い切れない。キリスト教も仏教も、その教理体系の根幹は男が造ったのであり、残念ながら男性中心原理の悪影響を免れてはいない。その差別的な規範を問い直す作業が、仏教においてキリスト教以上に熱心に行われているとは到底言い難い。

教会が必ずしも是としない性的指向を自らに抱え、なおかつキリスト者として真摯に生きようとする人間を横において、教団中枢が「聖書にどう書かれているか/書かれていないか」の議論に終始する空虚さを、著者は鋭く指摘する。その議論には、今ここに生きている同性愛者の存在が全く見えていないのではないか、と。

キース・ヴィンセントの指摘によれば、異性愛支配の性差別社会においては、プライベートが男女の交流する場として定義される一方で、パブリックとは本質的に女性が排除された男性空間である。異性愛を前提とした規範が、同性愛を性的趣味、嗜好、すなわち私秘的なものと看做すことで、事実上パブリックは「異性愛化された空間」となっている。同性愛者のカミングアウトが、しばしば「プライベートな問題」と矮小化され、あるいは無効化される所以であり、著者の問いは正しくこの射程にまで達していると思われる。

私のような凡庸なヘテロセクシャルにとっても、多くを考えさせられる一冊であった。その思索を、私を<男>に押し込める構造への反逆に繋げたい。
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2011年11月25日

純女

あんなこと(*1)やこんなこと(*2)からコスプレへの興味が嵩じて、三橋順子『女装と日本人』を読了。講談社現代新書2008。

新書ながら360ページを超える、なかなかの力作である。前半はヤマトタケルの女装から、能、歌舞伎、そして「ニューハーフ」の誕生にまで到る日本の女装史を丹念に辿り、日本文化の基層に伏流する「双性的存在」の意味を深く掘り下げている。性別越境者に焦点を当てた文化史は類書も少なく、貴重な研究であろうかと思う。性別越境者がシャーマンや芸能者として機能する「双性」の原理は、非キリスト教圏において相当な普遍性を持つものであり、その点でも興味深い。

後半は、自身MtF(*3)のトランスジェンダーである著者の半生の記録と、そこから垣間見える現代日本社会の性別認識の考察であり、知らない世界に接する愉しみという点では、こちらの方がむしろ面白い。

性別越境者としては遅咲き(という言い方も妙だが)であり、人生の前半を男、残り半分を「女」として生きて来た著者ならではの深い洞察は、性自認と性他認の交錯する際どい領域を痛快に解き明かす。

MtFのトランスジェンダーが身に纏う過剰なジェンダー記号の積み重ねは、ジェンダー・イメージの過剰演出に繋がり、そのような現実には存在し得ない「過剰な女」こそが、時として男性の性幻想を強烈に喚起するというのは、実に鋭い指摘であり、おおいに有り得ることだろうと私も思う。

個人的にウケたのは(本筋とはあまり関係ないが)「純女」という未知の用語。「じゅんめ」と読む。女装者の多くを含むMtFトランスジェンダーに対して、「生得的な女」を指して言う用語だそうだ。女装コミュニティ(というのがそもそも未知なのだが)の間では、結構普通に使われる用語らしい。面白いカテゴライズだと思う。

生得的な男を「純男」と言ったりはするのだろうか。どう読むのかな。「じゅんの」?(*4) しかし、こちらの方は何故か猥褻な響きがする。そう感じてしまう性根の卑しさは、現時点での私の限界か。

それはともかく、ジェンダーとセクシュアリティの問題に多少なりとも興味があるなら、読んで損は無い一冊である。これはお薦め。



*1 越境の可視性ー非国民研究開発
*2 昨日までとは違う世界ー非国民研究開発
*3 Male to Femaleの略
*4 コメント欄にて著者本人より教示を頂いた。正しい読みは「すみお」。
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2011年10月16日

越境の可視性

たまたま本屋で見かけた『コスプレする社会』(成実弘至[編],せりか書房2009)を読了。これが結構面白い。コスプレそのものにもコスプレという現象にも縁の薄かった私だが、ここ何年か東京ドームシティで仕事をする機会が多く、最近は結構な頻度でいわゆるコスプレを間近で見てきた。最初はただ驚くばかりだったが、見慣れてくるにつれ「一体アレは何なんだろうなあ」という漠然とした興味が湧いてきたところの一冊である。

副題に「サブカルチャーの身体文化」とあるが、こちらの方が本書の内容を的確に示しているように思う。実際、狭義の(いわゆる)コスプレに関する考察は少なめで、それ以外はイレズミの民俗学、ヤンキー文化論、制服文化研究、ドラァグクイーンへのインタビュー、女装コミュニティのエスノグラフィー、などなど、広義の「異装」をめぐるテーマが、やや雑多に扱われている。まあ、それぞれ面白いから良いんだけど。

なかでも惹かれたのがジェンダーとの絡み。コスプレという文化実践が「過剰さによる価値の無効化」を果たしているという指摘が、なかなか鋭く面白いと思えた。コスプレが、伝統的に女性的なものとされてきたメイクや裁縫といった技術に支えられているにもかかわらず、その「やり過ぎ」が、結果として「女性らしさ」を超越させるという逆説。

性別を越境する「自己表現」としての女装、というもの実に興味深かった。こちらも、私には殆ど知識のない領域だが、奥は深そうだ。もう少し掘り下げて勉強してみようかなと思う。

面白いとか興味深いとか書くと不謹慎なようだが、こういった研究は、面白ければそれだけで充分に存在価値があるということで、ひとまず。



【追記】
これを書いた翌日、さっそく世界が変容した。
昨日までとは違う世界
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2011年02月26日

歴史マニアさまざま

読書という悪癖だけは治らない。現場の空き時間なんかに本を読んでいると「どんな本が好きなんですか」と尋ねて来る粋狂な人が時折いる。どんな、と言われても、こちらは乱読雑読の単なる活字中毒なんで、もとより人様に自慢出来るような趣味だとは思っていない。面倒くさいので「歴史の本なんか、よく読みますねえ」とか何とか適当にお茶を濁していると、突如として目の色を変える人種がいる。

しまった、と思っても既に遅い。彼らは歴史マニアだ。しかも結構多い。

とはいうものの、歴史マニアの類型はそれほど多くない。目の色を変えた彼らが滔々と熱く語るのは、殆どの場合、戦国武将と幕末の志士と帝国海軍の興亡、この三つに集約される。それはもうびっくりする程の類型ぶりで、この国の歴史マニアにとっては要するに「歴史=戦史」なのかとさえ思う。

ここで「被差別民と白山信仰の繋がりが・・・」とか言い出そうものなら、再び彼らの目の色が変わり、当方はすっかり「奇人」扱いとなる。

何でこんなことを言い出したかというと、最近読んだ藤木久志の『雑兵たちの戦場』が滅法面白かったからだ。朝日選書2005。農業だけでは食って行けず、農閑期に戦場を渡り歩いては食い扶持を稼ぎ、あるいは略奪した雑兵たちの群像。奴隷として海外へ売られて行った者も少なくない。当時日本にいたスペイン人やポルトガル人の多くは、戦国の世の日本を「内戦」と表現している。言われてみりゃ、まあその通りで、ちょっと新鮮だった。

戦国時代に多少なりとも興味がある人なら絶対に読んで損は無い本だと思うのだが、こういう話題で盛り上がれる相手は少ないんだろうなあ。

ちなみに、歴史マニアだけが取り立てて面倒くさいわけでは無い。「SFなんか、よく読みますねえ」と言うと、更に面倒くさい事態に陥ることがあるのを私は知っている。
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2011年02月06日

リベラル・イスラームの射程

小川忠『テロと救済の原理主義』(新潮社2007)を読了。原理主義をめぐる諸問題のみならず、いわばもう一方の極であるリベラル・イスラームの思想的系譜が丁寧に論じられている。後者は日本で紹介される機会が少ないだけに興味深い。

民主主義とその価値を擁護し男女同権の社会を目指すイスラーム運動「リベラル・イスラーム・ネットワーク」なんて、素直に凄いと思う。恥ずかしながら私は全く知らなかった。

考えてみればキリスト教徒だって、ファナティックな宗教右派からリベラルな常識人まで様々いる訳で、事情はイスラーム教徒だって同じということだろう。当たり前のことなんだけど、なかなか気付かない点ではある。そういえば、かつてタリバンがバーミヤンの石仏を破壊したとき、世界のほとんどのムスリムは「いかなるイスラームの教えによっても正当化され得ない暴挙だ」と眉を顰めていた。その良識を侮ることは出来まい。

特に惹かれたのが、イスラームと政教分離原則は両立し得ると説いたエジプトのイスラーム学者アリー・アブドゥッラーズィクの議論。

世界がイスラームを信じ、イスラームの信仰の下で一体化することは有り得るかも知れない。しかし世界が一つの統治形態を選び、一つの政治的統一の下に置かれるということは、人間というものの性質からしてあり得ない。また、そうせよとはコーランには書かれていない。

彼が著書『イスラームと統治の諸規則』でこう主張したのは実に1925年のことだ。何と頼もしい良識だろうか。同時代の極東では既成教団がこぞって天皇神格化のプロセスに加担し、あるいは出口王仁三郎の大本霊学や田中智学の日蓮主義が擬似的な<公共宗教>を目指していたことを思えば、その先駆性は注目に値する。


検索用:Ali Abdel Raziq
posted by 非国民 at 18:45| Comment(36) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする