2010年07月03日

ハードボイルド者の弱点

再び桐野夏生。『グロテスク』が凄かったので、今度は『OUT』を読んでみた。

結構評判になった本で、実際かなり売れたらしい。所謂ベストセラーには興味が湧かないタチなので、ちょっとどうかなとは思ったが、書店で手にしてみると『親指P』の松浦理英子が解説を書いていて(今回も濃いなあ)、そういうことならと読み始めた。

やっぱりこの作家は凄い。読んでいて気持ち悪くなるほどだが、どうしても読み進めずにはいられない。本当に、よくもまあこんな気持ち悪い話を思い付いたものだと、まずそのことを畏怖する。

私のハードボイル度は高い。一昨年の診断では「フィリップ・マーロウ・タイプ」だ。しかし、概してハードボイルド者は女に弱い。色仕掛けに、という意味ではなく、何て言うんだろう、本気でへヴィーな女の決意、その生き様に接した時に、耐性が低い。

男が毀れて自滅していく様は平気で座視出来るが、女が毀れゆくプロセスを正視するのは堪え難いのだ。そして、毀れつつ地獄を目指す女(と男)の姿を、微に入り再に入り執拗に描き出したのが『OUT』だ。それでいて、ただドロドロと辛気くさい訳じゃなくて、その突き抜けた生き様には、ある種の爽快感すら漂っている。

案外こういうのが、究極のハードボイルドなのかも知れない。男が粋がってハードボイルドなんて言ってるのは、まだまだ甘い。そんな感慨すら覚えた。

それにしても、こんな面白い本を仕事が立て込んでいる時に読むもんじゃないな。この歳になると寝不足は堪える。
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2010年05月28日

泰子フリーク

ちょっと前のことだが、とある仕事仲間と二人で飲んでいたら渡邉泰子さんの話になった。と言っても若い方は御存知ないだろうか。東京電力に勤めていて円山町のアパートで殺された女性である。もう10年以上も前の事件だ。

その仕事仲間は自分を<泰子フリーク>なのだと言う。どうしても他人事とは思えず、泰子さんの生き様が頭から離れないのだと。彼女は歳も泰子さんと同じだという。生きていれば50代というわけだ。

彼女いわく、世の中に<泰子フリーク>というのは結構いるらしい。少なくとも彼女の同年代の間では時折出会うことがあると言う。

ちょっと意外だった。私はそんな人に今まで会ったことが無かったからだ。まあ私が男だという事情もあるのだろうが、そんな話を人としたことも無かった。その時はどんな経緯で泰子さんの話題になったのか、酔っていたせいもありよく思い出せない。

彼女は「泰子さんは殺されることで救われたんじゃないかな」と言うが、それは些か分かり難い感想ではあった。女性だからそう思うのか、あるいは彼女がクリスチャンだから、だろうか。分かるような気もするが、しかし救われなくても生きていた方が良いんじゃないかと、男で仏教徒の私は思った。

実は私も軽度の<泰子フリーク>だ。佐野眞一のルポを読み、円山町の迷宮を彷徨い、事件のあった線路脇のアパートの前に佇んだこともある。

そんなことがあって改めて調べるうちに、桐野夏生がこの件を取材して『グロテスク』という小説を書いていることを知った。名前を聞いたことはあるが読んだことの無い作家だ。フィクションだからあまり関係ないかな、と思いながら書店で文庫本を手にすると斎藤美奈子が解説を書いていて、それなら、と読み出した。

一気に引き込まれた。今まで知らなかったことが悔やまれる。凄い作家がいたものだ。

欲と憎しみに隅々まで汚染され誰もが醜く病んだ世界。それでも目をそらすことが出来ない。これこそが私の生きるこの世界なのだと思わずにはいられない。そんな確かな手触りを感じる小説だった。

泰子さんが夜毎おでんを買ったコンビニは、今ではもう無い。
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2010年01月13日

杜撰な辺境論

nafchieさんに借りた内田樹の『日本辺境論』(新潮新書2009)。借りといて文句を言うのもなんだが、ちょっと酷すぎる。本を読んでいてここまで不愉快になったのは久しぶりだ。つくづく内田さんとはノリが合わないらしい。

本書に関しては、あまりにも論の立て方が杜撰ではないかと思う。最初のほうでは、もっぱらアメリカと日本を比較して日本の特殊性を強調しているが、アメリカもまた相当に特殊な国なのだという点を一応は踏まえた上で論じるのでなければ説得力が無さ過ぎる。それにアメリカ人こそは、そのルーツにおいて辺境の民ではなかったか。

そもそも世の中のほとんどの民族は辺境民なのだという事実を内田さんはどう考えているのだろうか。古今東西、世界の至る所で、それぞれの辺境的境遇の下に多様な辺境的文化が存在しているのである。そのことを全く顧慮することなく、日本の辺境性と特殊性を結びつける言説とは何なのだろう。垣間見えるのは、人間の営みの多様性に対する信じ難いほどの無関心でしかない。

決定的なのは、「民族」と「国民」の悪質な混同である。本書でうんざりするほど繰り返される「私たち日本人」というフレーズは、殆どの場合において「日本列島を故地とし日本語を話す民族集団」という意味で用いられている。奈良平安時代のエピソードが「日本人」の特徴を示す例として語られている点からも、それは明らかである。

それだけなら、ああ内田さんの言う「私たち日本人」に俺は入らないなあ、で済むのだが、同じ「私たち日本人」が「日本国民」を意味している場合もあって、途端に話がややこしくなる。その点を曖昧にしたまま「日本人」と「アメリカ人」を単純に比較するのは無理があるのじゃなかろうか。さらに言えば、本書で内田さんは「フランス人」を終始一貫して「近代以降のフランス共和国市民」という意味で用いている。この場合、「日本人」と「フランス人」の比較に、一体どのような意味があるのだろうか。俗流比較文化論だとしても、適切な比較がなされなければ有益な知見を得ることは出来なかろう。

特に結論もないままに終わるこの本が漠然と発しているのは、良くも悪くも「日本人」は世界に類例を見ない特殊な文化を有しているのだという無邪気なイメージであり、同時に、それをよしとする現状肯定への決意である。

これで「昔は良かった」とか言い始めたらもう完璧だよなあと思いつつ読み進めて行ったら、終盤で本当にそうなってしまった。もはや言葉も無い。

ちなみに、本書で多少なりとも面白いと思えたのはレヴィナスの時間軸論に関する部分だが、これはタイトルとは全く関係無い。辺境論としては、最初から最後まで杜撰なままだった。

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2009年11月19日

私はモダニストだったのかもしれない

小熊英二の『<民主>と<愛国>』を読了。新曜社2002。丸山眞男、竹内好から吉本隆明、小田実へと到る「戦後思想」を、個々の論者の戦争体験に遡って読み起こし、戦後日本におけるナショナリズム言説空間の変遷を辿った力作である。

力作は結構だが、本としての体裁はもう少しどうにかならなかったのだろうか。ハードカバーで996頁の一冊づくりだ。内容の濃さとは別に、媒体である紙の質量がリアルに重い。せめて上下巻に分けようとかいう配慮は無かったのか。私は作家でも研究者でもない。読書に専念するような仕事場も書斎もない。本を読むのは専ら寝床の上か電車の中である。私のような都市下層民を、版元は読者として想定していないのだろうか。新曜社さんは良質な本を多く出している出版社だと認めるが、今回ばかりは「お呼びでない」と言われているようで不愉快だった。

それはともかく、戦争体験と一口に言っても決して均質なものではなく、世代や階層、あるいは住んでいた地域によって「戦争」の受け止め方は様々であり、それが「戦後思想」における世代間、階層間の確執に繋がっているという視点はなかなかに新鮮であり、面白かった。吉本隆明の分かり難さの原因が、少しだけ分かったような気がした。そして丸山眞男をちゃんと読まなきゃなあ、と今さらながら思ったことも白状しておく。

世代による思想的スタンスの相違、と言うことで思い出したのが、少し前に読んだ大塚英志と東浩紀の対談『リアルのゆくえ』(講談社現代新書2008)。対談中、大怩ェ執拗に東に絡むのだが、東の方は「そのような言われ方をするのは心外だ」という態度を崩さず、幾度となく議論は空転する。私自身は1968年の生まれだから、世代的には大怩謔閧燗撃フ方にずっと近い筈なのだが、何故かここでの議論に関しては東の戸惑いよりも大怩フ苛立ちの方が良く分かる。

68年生まれの私と71年生まれの東を隔絶する、何か決定的な事象があるのだろうか。それとも単に私が古いのだろうか。
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2009年09月24日

双方向性メディアの帰趨

『近代天皇制と国民国家━━両性関係を軸として』という本(早川紀代、青木書店2005)を読んでいて、結構面白い。定価は4500円と張るが、私は高円寺の古本屋で購入。

「明治初期における両性の関係をめぐる議論」と題された章では、当時の新聞の投書欄を丹念に参照しているのだが、この頃の新聞は今とは随分違う。不勉強にして私はその辺のことを全然知らなかったので新鮮だ。

この頃の新聞には大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)があった。前者は天下国家の政論が中心で、読者は官員、士族、豪農、学生などの知識層。「東京日日新聞」「朝野新聞」「郵便報知新聞」「横浜日日新聞」「日新真事誌」「改進」などがこれにあたる。後者は、女性や子ども、下層労働者を読者層として、身近な話題を分かりやすく談じたもの。小新聞の代表は「読売新聞」であった。別に読売を馬鹿にしているわけでは無い。普通選挙どころか憲法も議会も無い時代だから、下層平民が政治に興味を持つといっても自ずと限度があり、小新聞の存在意義も小さくはなかったと想像する。「読売新聞」の創刊号には「此の新ぶん紙は女童のおしへにもと精々有為になる事柄を誰にでも解るように書てだす趣旨でござりまするから・・・」との記述がある。漢文調の大新聞に比べて読売の紙面は口語に近く、振り仮名も付いていて、実際に女性の読者も多かったという。実は朝日新聞も小新聞であるが、明治の初期にはまだ大阪限定の新聞で、本書では参照されていない。

当時はまだ「取材報道」は一般的ではなく、編集者による「論説」と読者の「投書」が新聞の二大コンテンツであった。全紙面の実に三分の一から時には半分近くが「投書欄」で占められていたのである。投書者は往々にして複数の新聞に投書しているし、投書者どうしによる論戦も盛んに行われている。黎明期における新聞紙面は、書き手と読み手が渾然一体となって作り上げているという感が強い。現に、攻撃された編集者を庇う投書が陸続と寄せられたケースもある。

明治の初期、新聞とは双方向性のメディアだったのだ。これは読者の絶対数が少なかったから可能だったとも言えるが、黎明期のメディアという意味ではブログと比較して考えるのも面白いかもしれない。

一方通行のメディアとしては既に終焉を迎えつつある今日の新聞、今後はどこへ向かって行くのだろうか。読者層を限定することで双方向性を持ったメディアへと回帰するのか。そんなことことが可能なのか。はたまたブログ文化の行く末はいかに。規模の拡大と寡占によって、権威主義を伴った一方通行のメディアへと進むのか。

ちなみに、今日に残っている新聞はほとんど全てが「小新聞」の系譜である。事実上政府の官報であった「東京日日新聞」が「毎日新聞」に繋がっているのが唯一の例外で、他の大新聞は一つ残らず明治政府の弾圧によって潰されてしまった。
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2009年07月12日

唐崎夜雨が気になって

『運動会と日本近代』という本を読んでいて、これがなかなか面白い。

明治期における小学校の運動会が詳しく紹介されているのだが、その種目が凄い。「二人三脚」「障害物競走」「綱引き」なんかは今でも行われている種目だが、その先に「旗倒し」「俵送り競争」「騎兵戦闘」「敵陣占領」「中隊教練」と続くプログラムを見ると、運動会の起源はコドモ軍事演習であったかと深く納得せざるを得ない。

そこには、国民の身体を調教するという公教育の目的が明確に顕示されているのだ。いずれナショナリズムの枠組みへと回収されるその視点は、訓練と規律を通してこそ徹底される。

何故私は運動会が嫌いだったのか。単にスポーツが苦手だというだけではないその本当の理由が、ここにあるのかも知れない。

一方では「電話架設」「春日和」「唐崎夜雨」なんて種目も記録されていて、今となってはどのような競技だったのか想像もつかない。何なんだろう唐崎夜雨って・・・
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2009年06月05日

理想の美人

谷本奈穂の『美容整形と化粧の社会学』(新曜社2008)という本を斜め読み。何となく“当世美容整形事情”みたいな軽めのルポを予想してたんだけど、実はタイトル通り真っ当な社会学の専門書だった。エスノメソドロジーの手法も踏まえつつ、明治期以来の化粧品広告におけるイメージやコピーを丹念に読み解いた正調社会学。それが悪いって訳じゃもちろん無くて、ただ私がちょっと驚いただけ。

終わりの方に海外の実情についても簡単に触れられていて、これがなかなか興味深かった。いまや台湾は(韓国ほどではないにしても)相当な美容整形大国と化しているのだ。大陸や香港はもとより、広く世界中から美容整形を望む華人が台湾へとやって来るらしい。

大陸の医者は技術の面で信用が低いし(まあこれは何となく理解出来る)、香港の医者は概して保守的で美容整形をやりたがらない(これは意外だった)ので、多くの人が大陸や香港から台湾に集まることになる。

それは分かるとしても、アメリカやヨーロッパからさえも少なくない華人が美容整形を望んで台湾にやって来るという事情やいかに。アメリカにもヨーロッパにも腕の良い医者は沢山いるだろうにと思うが、ことはそう簡単ではないらしいのだ。

要は「アジア人が持つ<理想の美人>観を白人の医者は理解してくれないのではないか」という疑念が、彼女ら(*1)を台湾に集めている、ということのようなのだ。

確かに考えてみれば大いに有り得る話だろう。「美人」を成立せしめている諸々のパラメーターは、所詮文化の産物だから、分からない人には分かりっこない。この狭い日本列島でだって、<理想の美人>観は時代によって随分と変遷して来た。いまだって世代や地域によってかなり違うだろう。

してみると、美容整形というのもなかなか難しい仕事なのだな。単に腕が良いだけではダメなのか。


*1「彼ら彼女ら」と書くべきところであろうが、本書での調査対象は女性のみであった。
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2009年05月22日

もうひとつの世界

米本和広の『洗脳の楽園』という本を読んだ。宝島社文庫1999。サブタイトルに「ヤマギシ会という悲劇」とある通り、農事組合法人ヤマギシ会のカルト性と、そこで行われている「洗脳」を鋭く告発した内容だ。

ヤマギシ会については通り一遍の知識しか持ち合せていなかったので、本書の描くその実態については、正直「ここまでやるか」と驚いた。その様相は、連合赤軍からオウムへと到る<虚構の時代>の裏道を行き着くところまで行ってしまった、一種の極限かとも思う。

本書は、ルポルタージュとしては間違いなく一級の仕事だが、後半での「分析」には些かの疑問も残る。ヤマギシ憎しのあまり論点がズレてはいまいか。

著者は「ヤマギシの住人は<脳内に浮かんだユートピア>に住んでいる」と批判するが、はっきり言ってそれだけなら殆ど全ての宗教団体について言えることだ。「教団」というのは単なる信者の集合体ではない。俗世あるいは現世と全く別の位相に広がる「もうひとつの世界」なのだ。観念的なユートピアを提示することで宗教は求心力を維持し得る。ちなみに私が仏教徒でありながら特定の教団に属さないのは、その求心力を嫌うせいでもある。

観念的なユートピアにおいては、全ての人が幸せであることが想定されていて、現実に幸せでない人は「理論的にはいない筈の人」として排除されてしまう。これもまた多くの教団で見られる現象だ。

だから「<脳内に浮かんだユートピア>に住んでいる」という指摘は「ヤマギシ会は農業コミューンではなく宗教団体だ」と言っているだけに等しい。そして、宗教団体だというだけでは批判したことになっていない。

カルトとしてのヤマギシ会、その反社会性を糾弾するのなら、例えば法外な金銭的搾取や物理的な拘禁を伴う洗脳行為などこそを徹底して批判すべきであろう。

本書の初版(洋泉社)は1997年。そこそこ昔の本である。現在のヤマギシ会はどうなっているのだろう。俄に興味が湧いて来た。当ブログの常連は博識が揃っているから、誰か教えてくれないかなあ。
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2009年05月03日

不条理ギャグの愉しみ、あるいは己の俗物性について

妙な行きがかりで(最近そういうのが多いなあ)立花晶の『サディスティック・19』というマンガを読んでいる。これが結構面白い。乙女ちっく不条理ギャグ、とでも言うのだろうか。無駄にかわいらしい絵柄とシュールでブラックなネタ、その乖離が、どうやら私のツボらしい。

ところで、この作品は『花とゆめ』という雑誌に連載されていたそうだ。はてどこかで聞いたような聞かないようなと記憶を辿る。

思い出した。四半世紀も前の話だ。

高校のとき、同じクラスに松尾(仮名)という男がいて、彼がこの『花とゆめ』を毎号買って読んでいた。たしか『マーガレット』も読んでいたっけ。

格別親しかったわけでもなく、彼とマンガの話をしたことはなかったように思う。私自身も当時はマンガに全く興味が無かった。ただ、いい歳した男が少女マンガを楽しむという現象が理解出来ず、そんな彼のことを「ずいぶん変わったヤツだなあ」と(自分のことを棚に上げて)決めつけていた。

四半世紀を経て、今ここに認識を改める。松尾(仮名)は「ほんの少しだけ変わったヤツ」だったのかも知れない。

『サディスティック・19』は面白いのだが、さりとて本屋に行って『花とゆめ』を買うことには、やはり抵抗がある。まだまだ小物だなあ俺も。
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2009年01月10日

懐かしの週間本

新年最初の記事が昔話で恐縮だが、かつて「週間本」というのがあった。ちょうど私が高校生の頃だ。朝日出版社から出ていた新書サイズのペーパーバックで、値段も新書なみ。単行本と雑誌の雑種みたいなノリで、毎週一冊発行、増刷ば無しで初版が売り切れたらそれっきりというシリーズだ。ちょっとでも気になったら「買わなきゃ」と思わせる強迫が、確かにそこにはあった。かくいう私も、マメに本屋を覗いては買い込んだものだ。

いつの間にか出なくなって、寂しいなあとは思ったが、深く追求することもなく、そのうち気にしなくなった。結構マニアックなラインナップだったから朝日出版社も遂に倒産したかな、なんて漠然と思っていた。

つい先日、調べもののついでに引っ掛かってWikipediaの記述を読んで、本当に驚いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E6%9C%AC
週間本は、たったの一年間しか出ていなかったのだ。全部で45冊。

 1. 山口昌男『流行論』
 2. 田中康夫『感覚の論理学』
 3. 日比野克彦『HIBINO SPECIAL』
 4. ジミー・ネルソン『ワード・ウォッチ アメリカの流行を読む』
 5. ニンカム・プープ『女子大生を責めないで 』
 6. 坂本龍一『本本堂未刊行図書目録 書物の地平線』
 7. 平岡正明『河内音頭・ゆれる』
 8. オフプリント『'85幸福手帖』
 9. オフィス01『ダブルスクール術』
 10. 四方田犬彦『映像要理』
 11. ニンカム・プープ『反風俗営業法 世紀末性戦争の行方』
 12. ピブリック『インゴロジー入門 その筋言語のプロ知識』
 13. 篠山紀信『微分』
 14. 立松和平『デジャ・ヴュ』
 15. 細野晴臣+吉成真由美『技術の秘儀』
 16. 中上健次『都はるみに捧げる 芸能原論』
 17. 磯崎新『ポスト・モダン原論 』
 18. 橋本治『根性』
 19. 今川忠雄『少女現象』
 20. 太田眞一『長島茂雄のユートピア』
 21. 島田雅彦『認識マシーンへのレクイエム』
 22. 小田晋『グリコ・森永事件 21世紀型犯罪を分析する』
 23. 尾辻克彦『超プロ野球 集中力の精神工学』
 24. 泉麻人+みうらじゅん『無共闘世代 ウルトラマンと骨肉腫』
 25. 岸田秀『希望の原理』

 26. ねじめ正一『咲いたわ咲いたわ男でござる』
 27. 秋山さと子『メタ・セクシュアリティ』
 28. 野々村文宏+中森明夫+田口賢司『卒業 Kyonに向かって』
 29. 筑紫哲也『新人類論』
 30. 渡辺和博『ホーケー文明のあけぼの』
 31. 嵐山光三郎『黄金意識』
 32. 川崎徹+中野収ほか『大学学』
 33. 藤本義一『サンキューとベリマッチ』
 34. 伊藤比呂美『知死期時 近松と馬琴と南北と』
 35. フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎 agencement '85』
 36. 丹生谷貴志『天使と増殖 Ding an sich』
 37. 鴻上尚史『SAY-SHO! 世間は甘い』
 38. 高杉弾『霊的衝動 100万人のポルノ』
 39. 四方田犬彦+平岡正明『電撃フランク・チキンズ』
 40. 岡田節人+田原総一朗『細胞に刻まれた未来社会』
 41. 山口勝弘『パフォーマンス原論』
 42. 天野祐吉『巷談コピー南北朝』

 43. 山崎浩一『山崎浩一ひとりマガジン 早熟のカリキュラム 近未来少年少女倶楽部』
 44. 一倉宏『ユーク たとえば日曜日の午後6時の小さな国』
 45.渋谷篤弘『構造主義生物学原論』

45の『構造主義生物学原論』だけはハードカバー仕立てになっているが、背表紙には週間本45と書いてあるので、シリーズの一環(にして終焉)ということになる。それにしても濃いラインナップだなあ。コレが全部、増刷なしの初版売りきりなんて、今考えても勿体ない。ちなみにオレンジの文字は私が持ってるやつ。本棚を漁って見たら17冊もあった。後になって古本屋で買い集めた記憶はないから、全てリアルタイムだ。我ながらミーハーな高校生だと思う。学校の勉強には全く付いて行けないくせにアカデミックな雰囲気への憧れだけは捨て切れない半端者には、この辺が丁度手頃だったのかも知れない。

もっとも、今こうしてみると、私はドンピシャでリアルタイムだったわけでは無く、かぶっているのは後半だけらしい。16の中上健次なんて、本屋で目にしていれば買わなかったはずがないし、事実私が週間本の存在を知った時には既に入手不可だった。そう考えると、17冊所有というのは相当ハマった部類に入るだろう。ちょっと遅れて来た週間本の世代だ。

正直に白状すると、当時面白おかしく読み漁ったこれらの週間本がどれだけ私の骨肉となったかという点は、恥ずかしながら甚だ心もとない。今の私の生き方や考え方に大きな影響を与えたとは言い難いし(むしろそういうのは中学生の時に読んだ本のほうが多い気がする)繰り返し何度も読んだのは40と45ぐらいかも知れない。

週間本の世代は、アカデミックな雰囲気を商品として消費してしまう(ひょっとしたら最初の)世代でもあったのだ。その悪癖だけは今でもしっかり残っていて、例えば『異装のセクシュアリティ』だの『コルセットの文化史』だのといった「ちょっと頭良さげで手頃な」タイトルを見ると、つい買ってしまったりする。
posted by 非国民 at 01:03| Comment(8) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする