2008年09月06日

誰のための道徳か

「母性」だの「母性愛」だのが嫌いだ。自分で口にするのも嫌だし、(たとえ悪気はないにしても)そういうものを無邪気に持ち出してしまう人を、どうしても信用する気になれない。

こんなことを今さら言うまでもないが、ちょっと面白いものを読んだので走り書き。

川村邦光「靖国と女」(『戦死者のゆくえ』青弓社2003所収)。実に面白かった。戦前、戦中の婦人雑誌(という呼び方もアナクロだが当時の用語に倣って)の表紙や口絵、あるいは記事を丹念に参照しつつ、軍国の母、九段の母をめぐる表象と語りを読み解いた力作である。特筆すべき新知見がある訳では無いが、その丁寧な読みは相応の説得力がある。

「母性」の喚起する気持ち悪さを端的に示しているのが、例えば「主婦之友」1945年4月号に掲載された高村光太郎「皇国日本の母」。
皇国日本の母の愛の美しさは、この本能愛を内に熱く抱きながら、又内に熱く抱くがゆゑに、人倫至高の絶対愛に溶け入つてゆく無私無欲無念無想の恍惚心にある。義は君臣にして情は親子なる、現人神に一切を捧げまつる至誠おのづから我が子をおん預かりものとさへ思ふ。死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極致である。

ああ不愉快。

日本の近代史上、もっとも強く母性や母性愛が力説されたのが、まさしくこの時代だった。もちろんそれは偶然では無い。母と子の観念的は紐帯は、明らかに戦争とともに強調され称揚されたのだ。そして結局は、恣意的なジェンダー規範が男あるいは国家によって都合よく仕掛けられ、期待されていたのである。

この戦争で命を落とした兵の中には、国家のため天皇のためではなく、愛する身近な者のために戦地へ向かった者もいるだろう。だとすれば、勇ましく喧伝された「日本の婦道」は決して空虚なスローガンなどではなく、まさしく実践思想として確かに機能したのだ。だからこそ、無警戒に「母性」を持ち上げる人を、私は信用出来ない。

ついでに言えば、純潔だの貞操だのといった言葉も私は大嫌いだ。それ自体が悪いことだとは思わないが、見ず知らずの人にそれを説く厚かましさは持ち合わせたくないし、人から説かれたくもない。

再び「主婦之友」より。1943年1月号で母性保護同盟委員長の山田わか(与謝野晶子の宿敵だったらしい)が、こう書いている。
皇軍の強いのは銃後の女性の堅固なる貞操観念に負ふところ多大であるといふ、世界が認めてゐる日本女性の誇り

やっぱり行き着くのはそこかい。

国家が強要する道徳なんて、所詮はそんなものだ。下らないったらありゃしない。
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2008年08月03日

赤塚不二夫の観察眼

その昔『広告批評』という雑誌に「顔の研究」というのが載ってて、これが面白かった。本棚を掻き回していたら出て来たので、突然の訃報に茫然としつつ読み返す。いま読んでも、その観察眼と諧謔は超一流だ。

 美空ひばり 
この人の顔は戦後の日本人が作ったのだ。シルクハットをかぶって歌っていた時代の顔が懐かしいし、可愛い。日本の民主主義も同じだ。
赤塚不二夫 
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2008年05月14日

溶融する世界

バリー・コリンズの『審判』という本を読んだ。劇書房1979。
凄い本だという評判で以前から読みたかったんだけど、絶版でなかなか手に入らず、吉祥寺の古本屋で見つけて即買い。

一応これは戯曲、ということになっている。実際に上演もされている。だが、いわゆる会話劇ではない。一人芝居、すなわち登場人物は一人だけの戯曲だ。

敵軍の捕虜となって地下室に閉じ込められた7人の将校。敵軍は彼らを置き去りにして行く。再び侵攻して来た自軍によって発見されるのは60日後。そこには骨と化した5人の骸と2人の生存者があった。閉じ込められた彼らは、同僚を殺してその身体を食べることで命をつないでいたのだ。生き残ったうちの1人は発狂状態で、もはや尋問に応じられる状態ではない。残る一人、アンドレイ・ヴァホフが、この戯曲の登場人物である。舞台は法廷。判事であるところの観客を前にして、彼は延々と語り続ける。その告解とも回想とも抗弁とも呪詛とも証言ともつかぬモノローグは、上演時間にして約2時間半にも及ぶ。

あまりにも重たい内容、時には活字を追うだけで気分が悪くなって来るほどの具体的な描写。その陳述を読みながら、私が考えていたのは、「事実を語ること」の途方も無い難しさだった。閉ざされた地下室で何が起こったのか、どういう経緯で殺し合いその身体を食べるに到ったのか、どうやってその順番は決定されたのか。事実を語れるのは彼一人しかいない。だからこそ判事=観客(むろん読者である私)も、何が起こったのかを知りたい。彼に事実を語ることを、求める。

しかし、それが絶望的に難しい。「事実」と「事実の解釈」は渾然一体となって、ヴァホフの口から述べられる。決して話をはぐらかそうという意図ではない。彼は冒頭で、自分は間違いなく有罪だと言う。そして「有罪だと、申し開きをしたいのです」と続ける。結局のところ、彼には、彼の物語を語ることしか出来ない。誠実に語れば語るほど、そこには事実の解釈が入り込む。

事実だけを語る言うのなら、はっきりしている事実は、他の5人が死んで彼が死ななかったということであり、それはヴァホフが語るまでもない。自らの死を受け入れた者、受け入れなかった者。その手を血で汚した者、汚さなかった者。彼らがどういう気持ちで死んで行ったのか、それはヴァホフにも分からない。それでもなお、そこに触れずには、ヴァホフ自身も自らの有罪を語り得ない。

人間というのは、どうしても解釈しないではいられない存在なのだろう。事実だけを語ることなど、本当は出来ないのかも知れない。申し開きの最終場面でヴァホフはこうも言う「あなたがたにとっての問題は、私をどうするかということでありましょう」。では判事たる観客そして私は、何をもってヴァホフを裁くのか。その根拠は、やはり事実でなく事実の解釈に過ぎないのではないだろうか。

事実と事実の解釈は全く別物だ、当たり前のようにそう思って生きて来たが、この本を読みながら、そんな自分の足元が音もなく融け崩れて行く気分を味わった。
posted by 非国民 at 18:14| Comment(13) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月06日

漢字が読めなくて

 
こちらのコメント欄kuronekoさんが教えてくれた『料理の起源』という本を読んだ(中尾佐助1972,NHKブックス)。これが滅法面白い。結構古い本なのに、私にとっては知らないことばかり。ものすごく勉強になった。近頃ではこういう研究は流行らないんだろうか。それとも単に私が無知なのか。

この分野に関してどれだけ私が不勉強なのかを思い知らされるのが、漢字。もう情けないくらいに読めない。古い本だから、今では使わない様な漢字が出てくるのかな。つったって、1972年の本だ。生まれる前の話ではない。やっぱり私が無知なのか。

まず作物の名前が読めない。コメ、ムギ、アワくらいは読めても、ヒエ、キビになると、もう読めない。ふりがなが付くのは最初に出てきた時だけだから、悔しいけど基礎教養のレベルなんだろう。粳米ウルチマイ、糯米モチマイも読めなかった。こういうの、全部カタカナで済ませてきたからなあ。

道具の名前も読めない。ウスは読めてもキネが読めなかった。恥ずかしい。カゴは読めたけど、フルイ、ザル、コシキは全敗だ。に至っては、ふりがなが振ってあっても、それが何なのか全く分からない。

ノゲも読めなかった。覚えたのに忘れてしまったという字では無いと思う。生まれて初めて見る漢字じゃなかろうか。そもそもノゲが何なのかを全く知らないのだから、最初からカタカナで書いてあっても分からない。つまり、見たことも聞いたことも無い言葉なのだ。稲作というものを基本的に知らないんだから、どうしようもない。

ホシイイ、カタガユ、シトギ、もちろん読めないが、さすがにこれは古語だろう。70年代に普通に使われていた漢字とは思えない。思いたくない。

いずれにせよ、これはまだまだ勉強せにゃあかんなあということで、『稲作の起源』(池橋宏2005,講談社)なんて本も買ってしまった。道は遠い。
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2007年12月16日

Mの世代

今更ながら、浜井浩一/芹沢一也『犯罪不安社会』を読了。光文社新書2006。安原さんのところで紹介されていたのを読んでさっそく買ったのだが、ついつい後回しにしていたのだ。

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posted by 非国民 at 05:02| Comment(5) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月17日

『夕鶴』のテーマ

知り合いが『夕鶴』をモチーフにした作品に関わるというので「ああ、貨幣経済が農村共同体を破壊していくという話だよねえ」と言ったら、思いっきりキョトンとされてしまった。途中を端折り過ぎたかなあ。
それとも、そういう読みは、あまり一般的ではないのだろうか。なまじ社会学など齧ったおかげで物語を素直に読めないのかも知れない。
posted by 非国民 at 00:07| Comment(14) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月18日

女性コミックってのは、どの辺がどう女性なんですか?

以前大勢の方にお叱りを受けたことがありまして、以来少しずつマンガの世界を覗き見ている非国民です。

最近気付いたのですが、世にコミックと呼ばれるものは、男性コミックと女性コミックに大別されるようなのです。そして私には、この区分が良く分からない。。。

男性の描いたものが男性コミックというわけでは無さそうだし。男性が読むから男性コミックというわけでも無いだろうし、だいたい、そんなの読む方の勝手だろうし。
概ね出版社別というか、初出雑誌によって区別されているようなのだが、何のためにそんな区別が必要なんだろうか。

例えば、私自身は外見も自認も男性な訳だが、そんな私が読んでいるものを見ると、女性コミックに分類されそうなものが多い。それがどうなのかと言えば、少なくとも私自身にとっては、全くどうでもない。私の周囲には同様な傾向を持つ人が少なくないし、まあ類が友を呼んだという可能性もあるが、つまり、そんな区分けは最初から意味が無いのだ。

強いて勘ぐれば、「主たる読者に男性を想定している作品」が「男性コミック」なんだろうけど、それって随分と不便なシステムなんじゃないかと思う。変な言い方だが「産業的」っていうか、ターゲットを絞った商品開発戦略みたいで、どうにも味気ない。
どうして「主たる読者」にどちらかの性を想定しなきゃならんのか。読みたい人が読みたいものを読めば良いじゃないですか。

活字本の世界に、そんな理不尽な棲み分けは無い。
女流文学という言い方はあって、私はそれも好きじゃないが、それはまあ女性が書いた文学というだけの意味だ。「女性文学」とか「男性文学」とか言ったりはしない。

もっとも、ネタとしては面白そうですね。
夢野久作は女性文学か男性文学か。何となく女性っぽい? 
筒井康隆はきっと男性文学だ。坂口安吾もそうかなあ。
倉橋由美子はどうだろう。男性っぽいけど、『ポポイ』は美少年モノだから女性文学かなあ。
松浦理英子は? 花村萬月は? 沼正三は? 中上健次は? 姫野カオルコは?

どんどん分からなくなって来る。
posted by 非国民 at 11:35| Comment(6) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月02日

クラゲの正体

坂田明『クラゲの正体』晶文社1994
これがまあ、面白いのなんの。
水産学科出身のジャズミュージシャン坂田明が、クラゲに取り憑かれた第一線の研究者を訪ね歩いて、その魅力を存分に語り尽くすという、素晴らしい企画である。

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posted by 非国民 at 22:45| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月14日

恥ずかし文学

いつだったか、gegengaさんのところで「村上春樹は恥ずかしい」みたいな話になったことがある。
そう思う人って意外と多いんだなあと、ちょっと驚いたものだ。

この世には「恥ずかし文学」という領域が存在するのかも知れない。
ふとそう思って、ごそごそと本棚を探ってみた。

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posted by 非国民 at 12:28| Comment(13) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月26日

非国民所有の全マンガ一挙公開

特に深い理由はない。
一挙に公開できるぐらいの量しか、持ってないのだ。
本棚の隅から隅まで探して、全部で18冊。

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posted by 非国民 at 04:10| Comment(11) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする