2011年12月23日

くどいバンドの懐かしさ

話せばとても長くなる妙な縁があって、「9101」なるバンドというかヴォーカルユニットのミニライブで照明を担当した。9101と書いて「くどい」と読む。

本来は二人組なのだが、今回はゲストを加えての女三人編成。ヴォーカル(兼ノリツッコミ)、ヴォーカル(兼ウクレレ兼ボケ)、マラカス(兼コーラス兼ツッコミ)という、まことにもって奇特なる編成である。当然ながら三人ともが立って演奏する。

意外にも、と言っては失礼だが、音楽的な完成度は高く、個人的にも楽しめたライブであった。要するに、私の「好み」だった訳だ。本番中に漠然と感じた懐かしさは、後になって考えてみると「宮川左近ショウ」に通じるものであったらしい。上方文化圏が生んだ稀代のスリーピース・バンドである。

この手の歌謡漫才あるいは浪曲漫才、最近ではすっかり流行らないようだが、軽薄なコミックバンドと違い、「芸」として確立された音楽性と話術の妙には、ライブならではの愉しみに満ちた奥深さがあったなあと今になって思う。
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2011年11月27日

左翼認定

知り合いに極左の演出家がいて、久しぶりに一緒に仕事をする。関係者顔を合わせて雑談の折、舞台監督が彼に尋ねていわく
「今回、何で照明を三谷さんに頼んだんですか?」

件の演出家は迷うこと無く言下に
「そりゃあ、左翼だからに決まってるじゃないですか」

決まってるのか、それは?

私自身、若干左翼気味であることを否定はしないが、それほど当然のこととして語られるのは些か心外であった。もちろん、明示的に「左翼だから」という理由で仕事を依頼された経験は、これまで無い。

私は、そこまであからさまに左翼だったのか。まだまだ自覚が足りないようだ。

ちなみに公演は年の暮れも押し詰まった頃である。
普通劇場パフォーマンス『じぱんぐ零年』
はてさてどうなることやら。

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2011年11月19日

働くおじさん

昨日、今日と、千葉の田舎の市民ホールで小学校の合唱部やら中学校の吹奏楽部やら。音楽系の名門校というわけでない。ごく普通の、どうってことのない千葉の田舎の小学生や中学生だ。

そんなところで照明屋が働いているというのを意外に思われるかも知れないが、実はひっそりと働いている。舞台を使えば舞台照明の操作が要るからだ。「ただ明るくするだけでしょ」と言われれば、まあ概ねそうなんだけど、それでも、明かりが点いているからには「誰か」が点けているのであって、その「誰か」が私であっても別に不思議は無いのであった。

これはこれで結構楽しくて、嫌いな種類の仕事では無い。上手いとか下手とか、もはやどうでもいいし。コンガやボンゴの替わりにポリバケツを叩くなんて、田舎の小学生がやってこそサマになるのだと妙なところで感心もした。でも毎日こんなのばっかりだとさすがに飽きるんだろうなあ。
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2011年11月17日

ダンモ

またしても仕事がらみだが、早大モダンジャズ研究会創立50周年の記念ライブを聴いた。題して「ダンモ50」。集まってみれば、これがまた錚々たるメンバーである。さすが50年と言うべきか、さすが早大と言うべきか。何しろ元々の人数が多いからなあ。私の関わる舞台業界だけでなく、ジャズ界においても早稲田は一大勢力なのであった。

私のいた学校は、そもそも人数が少ないせいもあって「学閥」と呼ぶほどのものは成していない。私が無縁なだけかもしれないが、卒業後に群れるという習慣も希薄だ。

モダンをダンモとひっくり返し、ジャズをズージャとひっくり返す*1のは、往年のジャズマンの間ではお決まりの符牒だったのだが、最近ではとんと聞かなくなった。いや、そうでもないか、今でも飯をシーメ、ビールをルービと言ったりはする。私は使わないけど。しかしダンモはさすがになあ。今の若い人に通じるかどうか。

森田をタモリとひっくり返すのも同じ感覚かと思いきや、当人が出てきて言うには「同期の中でひっくり返して呼ばれたのは私だけでしたね」とのこと。どうやらこれは関係無いらしい。



*1 二音節の場合は、ひっくり返してさらに間の母音を伸ばすのが決まり

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2011年11月04日

死に到るリアリティ

たまたま仕事の絡みがあって「トスカ」というオペラを観る機会があった。伝統芸能に対する興味は比較的薄いのだが、オペラ独特のリアリティの表出具合を面白いと思うことが、時々ある。

トスカの2幕で、男がナイフで刺されて死ぬシーンがある。当然ながら、オペラでは歌も演技も全て楽譜に沿って進行するから、刺されてから息絶えるまでの長さも「何小節」という風に決まっている。そこが面白い。

あと8小節で死ぬ、という男が、たとえどれほど沢山言いたいことがあったとしても、その8小節は決して伸びないのだ。人が死ぬ時というのは、実際そういうものなんだろうなあと思う。
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2011年10月13日

追悼

只石善士という演出家がいた。その名を知る人は決して多くはないだろう。いま彼の名前をwebで検索しても演出家としての事績を残す記事は皆無である。「没蹤跡」を完遂したその消えっぷりは見事という他なく、むしろ若干の羨ましさすら覚えるが、一遍くらいは彼の名を残す記事があってもよかろう。

日本の演出家の殆どは脚本家を兼任する「作・演出」であり、演出のみを手がける人というのは決して多くはない。只石さんは、その数少ない演出家であり、かつ非常に優れた演出家でもあった。「自分の作品を創る」ということに眼目を置かず、役者が自由に動けるスペースを提供することが自らの役割だと考えていたようだ。舞台という試験管の中で役者とスタッフワークが絡まり合いつつ化学反応を起こし、予期せぬ生成変化を始める様相を、純粋に楽しんでもいた。

劇場に入ってからの舞台稽古というものを一切しない人でもあった。時間に余裕がある時でさえ「必要ありません。僕は稽古場で全部終わらせますから」というのが彼の言い分であった。見栄なのか意地なのか本心なのか、今となっては知る由もないが、彼は常にそのスタイルを実行した。役者が稽古したいと言えば客席で見ていたが、只石さんの注文で舞台稽古をしたことは本当に一度も無かった。これは凄いことだといまでも私は思う。

結果として、一緒に仕事をしたのは彼の演出家人生の最晩年という事になってしまったが、彼と創った三本の芝居は、私の照明屋稼業において間違いなく最もスリリングで愉しみに満ちた時間の一つであった。そこには豊かで濃密な相互作用が微熱を発していた筈である。

只石さん、どうもありがとう。
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2011年07月04日

老化と功名心

43歳になった。まさかこれほど長く生きるとは全く思っていなかったので、今ひとつ実感が無い。それでもまあ、老化に伴う心境の変化というのはあるようで、若い頃には全く興味を持たなかった住宅の照明を、生きているうちに一度くらいは手がけてみたいと、さほど本気ではないにしろ、漠然と思うようになった。

これも一種の功名心であろう。その場限りの移ろい行く虚業ではなく、長く形に残る仕事を通して後世に名を成さんと欲する、浅ましい凡夫の見栄である。要するに現世への執着か。徒に馬齢を重ねたはいいが、まだまだ覚悟は足りないようだ。たいした才能も持たない凡夫が、無駄に見栄を張ってどうなるものでもなかろう。

どうせ現世への執着が断てないのなら、死んで惜しまれるよりも生きて嫌われた方がマシではなかろうか。そして、死んだ後は綺麗さっぱり忘れ去られるのが良い。
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2011年05月03日

月末異変

いつもなら月末には色んなところに請求書を送る。細かい仕事を掻き集めて食い繋いでいるので、月によってはかなりの枚数になる。

先月分は、ああ何とゆうことでしょう、送りつける請求書が皆無だ。もともと不安定な仕事であるからして、その月々で多い少ないはあるが、ゼロというのはさすがに尋常ではない。

もっとも、全く仕事が無かったわけではない。当日にゲンナマで受け取った(業界の言葉で「とっぱらい」と言う)仕事もあるし、個人対個人の取引では、請求書は別に要りませんよ、という場合もある。

請求書を送るのは、制作会社やプロダクションなど、主に会社相手の場合だ。また、照明会社というのが世の中にはあって、そこからの発注が私の収入の少なからざる部分を占める。請求書を一枚も出さないということは、要するに先月は会社相手の仕事が一つも無かったということになる。私だけが特別に干されているのでなければ、その会社自体に仕事が無かったということでもあろう。

個人も大変だが、会社組織にして人を抱えているところは、もっと大変だろうなあと思う。
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2011年04月26日

配色練習

「照明さんて、暇なとき何してるんですか」と訊かれることがある。

さあ何してると言われても、ゴロゴロと本を読んだり、こんな駄文を書き散らしたり、どのみちロクなことはしてないのだが、ごくたまに配色練習なんかをやってたりする。

そう言うと驚く相手が多い。照明屋が「練習」するというのは意外に思われるようだ。

何の練習なのかというと、まあ読んで字のごとくで、与えられた(任意ではない)複数の色を組み合わせて調和に持って行くという作業だ。色彩のバランス感覚を磨く練習だが、普段の自分が使いそうも無い色を敢えて試してみる、というのが眼目である。

デザイナーといえども、あるいは、であるからこそ、好きな色と嫌いな色というのがある。これは個人の好みの問題だから、どうしてもあるものだし、あっても構わない。しかし、仕事としてデザインに関わる以上、苦手な色、というのは出来るだけ少ない方が好ましい。偉そうに言わせてもらえば、そこがプロの意地である。

苦手な色を克服するのが目的だから、得意な色だけを使っていては練習にならない。不得意な色に対してあれこれと試すことで、今まで自分の中に無かった新しい組み合わせを発見したり出来る。デザインの幅が少しは広がる。

特定の物件が念頭にあるとなかなかうまく行かないものだし、面白くもないが、暇な時には結構楽しいものだ。

もっとも、基本的に「練習」と名の付くものが嫌いなので、本当にたまにしかやらない。既存のテクニックに習熟することよりも、光と人間の関係を追求することの方に、本来の私の興味はある。
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2011年04月25日

駅の暗さについて

このところ節電ということで駅のホームやコンコースも暗くしているところが多いようだ。気持ちは分かるが、駅の照明に関しては省エネ以前にデザイン自体をどうにか出来ないのかと思う。

今までの明るい駅に慣れてしまっているので、ホームに立つと、その暗さをはっきりと感じる。もっとも、取り立てて不便というほどの暗さではない。気になるのは明るさではなく光の「質」である。青白い蛍光灯の光は、充分な照度が無いと、途端に薄暗く陰鬱な印象を与える。

もともと日本の駅の照明は酷く、商売柄このことは以前から気になっていた。要するにホスピタリティという意識が欠けているのだ。既にあちこちに書いてもいるのだが、自分のブログではまだだったので、この機会に改めて記しておこう。

大体この街では、何故かくも多くの人が駅のホームで自らの命を断つのか。駅という空間のデザイン、その貧しさがそこに関係していない筈はない。照明のあり方を考え直すだけで、いくらかでも状況を変えることは必ず可能だ。たとえそれが根本的な解決にはならないにしても、「ここで死ぬのはやめとこう」「今死ぬのはやめとこう」そう思わせる空間に駅がなれば、それは本当に素晴らしいことだと思うのだ。そのためには、光の「量」だけではなく「質」を考えなくてはならない。

かつて私がサラリーマンだった頃、毎日地下鉄に乗って通勤していた。私自身がサラリーマンに向いてなかったせいもあるだろうが、駅のホームに立つと、「俺は東京という巨大な工場の中をコンベアで運ばれていく部品みたいなものだな」と思ったものだ。当時も今も、駅のホームは水平面照度の確保ばかりを重視した機能一辺倒の味気ない照明だ。比喩ではなく、工場の照明と全く変わらない。

日本の駅のホームは、ほとんどが昼光色あるいは昼白色といった蛍光灯で照らされている。これは昼間の太陽光に近い色温度で、大脳皮質を覚醒、興奮させ、身体を活動的な状態に喚起する光だ。もちろん実際の太陽光とはスペクトルが全く違うので、皮膚に浴びて身体が覚醒する訳ではない(その作用は紫外線によるところが大きい)が、眼からの入力はこれに騙される。また、騙されるように蛍光灯メーカーは商品開発して来た。詳しい仕組みは専門的になり過ぎるので端折るが、要するに人の視覚はこの違いを見分けられない。

このような蛍光灯はオフィスや工場で多用され、まあそれは理にかなってもいる。しかしながら、駅のホームがオフィスや工場と同じ手法で照明されることが必ずしも合理的だとは思えない。そこには、もう少し違ったアプローチの照明デザイン求められているように思う。

そもそも駅のホームがオフィスや工場と同じ意味合いを持って都市の中に存在している筈は無いのだし、であれば、もっと落ち着いた、くつろげる雰囲気というものがそこにあっても良いのではなかろうか。例えば、色温度の低い温かみのある光源にするだけでも全然違う筈だ。同じ蛍光灯を使うにしても、電球色のタイプがあるし、最近のものは充分に綺麗な光が出る。もっと言うなら照明器具自体も剥き出しで天井に取り付けるのでなく、ちょっとは工夫すればいい。

なにも奇抜なデザインを考える必要は無い。デザインに求められるホスピタリティとは何かを意識し、ほんの少しの遊び心を持つことで、駅のホームは今よりずっと素敵な空間になり得る。もちろん今以上の電力を消費することなく。

安全と効率の追求だけがデザインの全てというのでは、あまりに寂しいではないか。
posted by 非国民 at 06:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする