2014年08月29日

ぼくの夏休み

暇になったと思ったら夏風邪を引いて寝込んでしまった。熱で節々が痛む。

三日ほど寝込んで漸く復活した。めっきり涼しくなったし、まあ明日も雨みたいだけど、どこか遊びに行こうかな、そうだ少し遠いけど前から気になっていた弓削田醤油で買い物してみようか

買い物してみようか

みようか

と思っていたら歯が割れた。今から4時間ほど前だ。今回はカツサンドを食べている時に来た。腰痛と一緒で最後のとどめは意外と些細な事だったりするらしい。

欠けたのか割れたのかの判断は結構難しい。鏡でも自分ではよく見えない位置だったりするせいだが、舌で触った感触ではざっくりと半分ぐらい無い。これはやはり割れたと言うべきか。幸いにして痛みは全く無いのだが、怖くて何も食べられず、眠れもせず、きっとこのまま歯医者の開く時間までのそのそと起きている事になるのだろう。

そういえば以前に詰め物が取れたのもこの辺の歯だったなと思い過去記事を漁ると、去年の話だった。大体の位置は一緒なんだけど、同じ歯かどうかは分からない。自分の事なのに分からない、というのが本当に不思議だし呆れてもいるが、何と言われようと分からないものは分からない。

この先も毎年こんな事を繰り返して死んで行くのかな。などと思いつつ、それでも飯は喰いたいから歯医者に行かねばと焦る凡夫のあさましさである。

とりあえず明日が休みで本当によかった。
posted by 非国民 at 02:37| Comment(3) | TrackBack(0) | 歯医者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月05日

祇園精舎の鐘の声

先週は朝霞でよさこい祭りの仕事。埼玉は暑い。

よさこい、という文化が、どうしても馴染めない。いかにもなヤンキー趣味が私の肌には合わないらしい。アレはやっぱり「族」の系譜なんだろうな。カミナリ族、みゆき族、竹の子族と続く日本文化の隠れた水脈だ。私は密かに「よさこい族」と呼んでいる。何故彼らは群れるのか。

熱中症一歩手前の茹だった頭で朦朧としつつ、踊り狂う老若男女を眺める。何を喰ってればあんなに元気なんだろうかと、たわいもない事を思いながらも見続けるうちに、やっぱりこれも盆踊りなのかという気がして来た。何もわざわざこの暑い時に踊らなくても、と思うのだが、この時期、というのに何かしら意味があるとすれば、それは盆踊りだからではないか。

そう思ってよさこい族を見ていると、気のせいかもしれないが、何となく諸行無常の響きを感じる。この世の栄華もうつろいも全てを儚き夢と観ればこそ、あの常軌を逸したエネルギーも納得出来なくはない。まあ、あのセンスは理解出来ないけど。それに、喧噪に満ちた現代では、あのくらいの大音量でないと先祖にも聞こえないだろうしなあ、とも思った。

祭文や踊り念仏から派生した盆踊りがよさこい族に繋がっているとすれば、これもまた21世紀における仏教史の一頁であろうが、全くの気のせいである可能性も否定出来ない。何しろ本当に暑かったのだ。


posted by 非国民 at 22:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月26日

日本国民である事が恥ずかしくなってきた

情けないやら腹立たしいやら、という段階では、残念ながらない。今はもう、ひたすら恥ずかしい。

一国の首相が立憲主義を理解しないというのは、そう簡単に実験出来るわけでもないが、なるほどこういう事になるのかと日々新鮮な驚きの連続。そして、当たり前だけど「あの人、頭悪いから、まあしょうがないよね」ではやはり済まないのだ。

村上誠一郎さんは「内閣が変わるたびに憲法解釈が変われば、法治国家が成り立たなくなる」と言ったが、全くもってその通りだと思う。別に村上さんを褒めるつもりは無い。こんな当然の事をはっきり言う国会議員が与党にただ一人しかいなかったという事実が衝撃的に恥ずかしい。
posted by 非国民 at 01:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月07日

言葉の壁(新しい玩具その後)

携帯電話の言語環境を英語にしている。最初に携帯を持つようになってから、ずっとだ。何故そんな事をしたのか今となっては思い出せないが、どうせ深い意味は無いのだろう。持ち慣れない携帯電話というものが何となく気恥ずかしく、少しばかり粋がってみたのかも知れない。

馴れというものは恐ろしく、あるいは惰性と言うべきか、基本的な用語を英語で覚えてしまったせいで、その後も携帯電話を買い替える度に設定を英語にして使っていた。「設定」とか「一般」とか表示されても直感的に理解出来ず「setting」「general」のほうがしっくり来る。電話帳も、読みをローマ字で記入してあるので、全てアルファベット順に並んでいる。

さて今回のiPhone5s。迷うことなく最初にやったのが言語環境を英語に変える事だった。ちなみに、次にやったのはtextsize→large。はい、ただの老眼です。

今までの携帯で英語にしていて不便を感じた事は一度も無かったが、今回初めて言葉の壁に直面した。世の中の殆どの人にとってははどうでもいい事だろうが、構わず書く。

第一はsiri。今どきのiPhoneにはsiriという音声認識インターフェースを供えたアプリケーションがある。当初はこれも英語にしていた。なかなかの優れもので、私のメチャクチャな英語でも結構通じる。音声発話に関しては膨大なフィードバックが蓄積されているのだろう。「明日の6時に起こしてくれ」と言えば、ちゃんとアラームがセットされる仕組みだ。ところが、英語のsiriは日本語の固有名詞を全くと言って良いほど認識しない。「スズキ」も「コバヤシ」も認識してくれない。入っている電話帳にはローマ字の読みが付いているにもかかわらず、だ。地名も絶望的。「ニシフナバシ」とか「チトセフナバシ」なんて何度言っても全く分かってくれない。どこをどう聞けばそうなるのかというヘンな英語に変換される。しまいには、ここに書くのを憚られるような汚いワードに変換されて「今のは聞かなかった事にします」と叱られる始末。驚くべき事に「トーキョー」も「オーサカ」も通じない。「トーキョー駅までの道案内を頼む」と言っても通じない。「キョート」も「フクオカ」も「サッポロ」も駄目だった。何故か「シンジュク」だけは通じたが、理由が分からない。

仕方ないのでsiriは日本語に戻した。今度は一発だ。「コバヤシさんにメール」と言えば「どの小林さんですか?」と候補が出る。「ニシフナバシからチトセフナバシの乗り換え」と言えば、これも1回で理解してくれる。これは凄いことだと本気で感心する。アクセントはいい加減、語尾は曖昧、語順は適当という日本語をここまで正確に聞き取れるというのは唯事ではない。日本語のsiriは英語版よりかなり遅れて公開されたが、単に後回しにされたというだけではなく、アルゴリズムの構築に相当の時間が掛かったのではないかとも想像する。

思うに、英語のsiriは聞き取り能力の問題という以前に、日本の地理、いや,日本の事全般をそもそも知らないのではなかろうか。試しに英語siriに「McDonald's near me」と言うと、ちゃんと聞き取って(当たり前だ英語なんだから)理解した上で「近くには見つかりませんでした」と言ってくる。知らないのだ奴は。知らないなら知らないと言うべきじゃなかろうか。同じ場所で日本語siriに「近くのマクドナルド」と聞けば「○件見つかりました」とすぐに候補を出してくれる。この場合「Makudonarudo」と日本語(?)で発音しなければ通じないのが面白い。

問題の第二は、地図。iPhoneのマップアプリには音声付きでルート案内してくれるという素敵な機能があって、siriを日本語にしてもiPhone本体が英語設定だと英語での音声案内になる。日本語siriに「どこそこまでの道案内」と頼むとマップアプリが立ち上がって、そこからは英語での案内になるのだが、こいつがまた何とも微妙。日本の道路を大雑把には知っているようだが、細かい路は知らないらしく、ちょっと遠回りな幹線道路メインの道順を示されたりする。裏道で迷っていると平気で案内をサボる。ちなみにディメンションはマップアプリの設定で変えられるので、何マイルと言われる事は無く、画面表示はもちろん音声での案内も「あと何百メートルです」と言ってくれる。

これも想像だが、言語設定が地図にリンクしているのかも知れない。日本語は一つしか用意されていないが、英語の設定には4種類あり、English(U.S)、English(U.K)、English(Canada)、English(Australia)から選べる。これは単に方言を区別しているのではなく、それぞれが該当地域の地図に対応していると考えるのが妥当だろう。日本で緻密な道案内を期待するのなら日本語で設定するのが合理的なように思える。

以上の二点が、目下直面している言葉の壁であった。まあ私の場合、iPhoneをカーナビとして使う機会はそれほどないだろうし、歩いている時は画面の地図を見れば良いのだから、英語のままでも何とかなりそうだ。

posted by 非国民 at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月05日

新しい玩具

とうとうガラケーではyahooメールが見れなくなると通告されたので、仕方なく携帯電話を買い替える。iPhone5s。軽く馬鹿にしていたが、今さらながら使ってみれば、なるほど便利に出来ている。

電車の中で後生大事にスマホを抱え込んでいる連中を見るにつけ「こうやって人類はアホになって行くのだなあ」と思っていた。いや、今でも思っている。

いずれ私もそうなるのかも知れない。
posted by 非国民 at 03:48| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月30日

徹夜

今日の0時過ぎから働き始めて、とりあえずの終わりが15時頃。家に帰ってシャワーを浴びれば今はもう17時。でもって22時には再び出掛ける。

こういう時にビールを飲んだりしてるから、ますます体内時計が壊れていくのだ。
posted by 非国民 at 17:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月28日

ディープサウス再び

大阪深南部のターミナル、天王寺駅から徒歩一分の立地に容赦なく広がる昭和の残滓、阪和商店街。

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あまりに鮮烈なレトロテイストは、まるで映画のセットのようだ。研ぎ澄まされた昭和のデザインが、訴求を通り過ぎて一種の非現実感さえ惹起する。

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人影が皆無なのは早朝に撮影したため。これでも現役の商店街である。ディープサウス侮り難し。
posted by 非国民 at 01:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史と文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月13日

日本の捕鯨はどうして嫌われるのか

最初に断っておくが、日本の捕鯨「だけ」が嫌われているわけではもちろん無い。日本の捕鯨を嫌う人は、殆どの場合ノルウェーの捕鯨もアイスランドの捕鯨も嫌っている。そうは言っても、その中で日本の捕鯨が特に嫌われていることは間違いない。

捕鯨を嫌う人の言い分にも色々あって、その全てが理にかなっているとは私も思わないが、日本の捕鯨が突出して嫌われていることには幾つかの明確な理由がある。それを確認しておくことは無駄ではないだろう。

まず第一に、学術調査の看板を掲げているから嫌われる。ノルウェーもアイスランドも明確に商業捕鯨を掲げていて、要するに彼らは食べるためにクジラを獲っている。アラスカなんかの伝統的な先住民捕鯨も、目的は食べるためだ。それでも駄目だと言う反捕鯨論者ももちろん多いが、それを別にしても日本の場合は「調査」の看板を掲げている点でさらに悪質だと看做される。どこの国にも本音とタテマエはあるし、それ自体を批判しても仕方ないけど、外交はあくまでもタテマエで動く。日本の捕鯨関係者はその認識が薄いんじゃないかな。さらに言えば、日本の捕鯨が本当に食べるためのものかどうかさえ実は怪しい。私自身は、ただの無駄な公共事業なんじゃないかと思っている。

次に、自国から遠く離れた海でクジラを獲るから嫌われる。ノルウェーもアイスランドも自国の沿岸でしか捕鯨を行っていない。この違いは結構大きいと思う。公海上の水産資源は大げさに言えば人類の共有財産だ。地球の反対側まで出掛けて行ってクジラを獲る行為を自国の「食文化」に繋げる言説は、いくらなんでも無理がある。これもついでだから言ってしまうと、「文化」やら「伝統」やらは、都合の良いように書き換えられてしまう場合が少なくない。要するに、いつの時代を基準にして「日本人の食文化」と呼ぶか、という問題なのだが、少なくともクジラが日本人の一般的な食材だったのは1950年代から60年代あたりの一時期だけだ。それまでは、ごく限られた地域の文化だったに過ぎない。安房の里見水軍、熊野の九鬼水軍、生月の松浦党と並べてみれば明らかなように、捕鯨が盛んだった所は大概が海賊の本拠地だ。日本列島の文化としてはレアケースであると言わざるを得ない。無論それもまた「日本人の文化」であることを私は否定しないし、こうした地域の沿岸捕鯨は出来れば残って欲しいと切に願うが、残念ながら日本近海のクジラはあらかた獲り尽くされてしまったので、かつてのような規模での捕鯨は存続不可能だろう。里見水軍の本拠地は内房の勝山というところで、昔は盛んに捕鯨が行われていた記録がある。この個体群は既に絶滅し、現在では内房に回遊してくる鯨はいない。

三番目に、これが最大の問題だと思うが、日本は水産資源の管理が全く出来ていないのに鯨を獲るから嫌われる。ノルウェーもアイスランドも厳格な資源管理の元で漁獲高制限を行っていて、かつ漁業は着実に利益を上げる成長産業となっている。ノルウェーなんか、敢えてEUに加盟しないことでEUよりも遥かに厳しい基準での資源管理を行っている。この水産資源管理という点に関して、はっきり言って日本は前歴が悪すぎる。クロマグロ、ニホンウナギは既に絶滅寸前だし、日本近海のイワシもアジもサバもニシンも完全な資源枯渇状態で、今すぐ禁漁にしても資源回復に何十年掛かるか分からない。カツオだって今のような獲り方をしていれば時間の問題だろう。そんな国が「調査捕鯨」なんて言っても信用されないのは当たり前だ。日本人を野放しにしたら最後の一頭までクジラを獲り尽くすんじゃないかと私でも心配になる。
posted by 非国民 at 18:20| Comment(6) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月29日

メジャーセブンスコードに弱いわたくし

Web徘徊中に偶然見つけたJen Turner。これはハマり。


http://www.youtube.com/watch?v=GtwM42U2n08


ニュージーランドは南島クライストチャーチの、録音時なんと16歳。
微かに湿り気を帯びた切ない質感が、エレピに乗って浮遊する。声も素敵です。
posted by 非国民 at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽;オセアニア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月23日

「持たざる国」の運命

片山杜秀『未完のファシズム』を読了。新潮社2012。

第一次大戦に人類は未曾有の総力戦を見た。もはや戦争は戦術や兵の錬度ではなく物量が勝敗を決する時代になったのだ。「持たざる国」日本はいかにして「持てる国」アメリカに対抗し得るのか。様々なアプローチとその破綻へ至る諸相が分かりやすくまとめられている。

「持たざる国」は総力戦をやってはいけない、というのが第一次大戦後の日本陸軍では主流的な考え方であったようだ。局地的な短期戦で圧勝して早期講和という例の戦略ですが、相手も戦略を練る以上、もちろん成立しませんでした。

石原莞爾の構想は、まず満州を押さえて、日本を「持てる国」にしてからアメリカと張り合うというものでした。彼の世界最終戦論では日米の決戦が1970年頃に設定されています。それまでに日本を「持てる国」にするという戦略です。もちろんこれも成立しませんでした。日本を「持てる国」にしてから戦争しようという構想そのものが必然的に戦争リスクを高めてしまうからです。「持てる国」になろうとすればするほど「持たざる」うちに戦争に追い込まれやすくなる。

結局「持たざる国」は精神力を唯一の頼みとして破滅へと向かうしかない。行き着くのは玉砕という哀しき必勝哲学です。

分かりやすい本なんだけど、ちょっと分かりやすくまとめ過ぎたかな、とも思う。石原莞爾について言えば、少なくとも一時期の彼は満州を利用するだけでなく「五族協和」の理想を本気で希求していた節がある。にもかかわらず現実に行ったことは侵略と植民地的収奪以外の何物でもなかった。その不整合をどう考えるのか、もう少し掘り下げて考えてみる必要はあると思う。
 
posted by 非国民 at 03:20| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする