(親族やパートナーによる)ブルカの強制を問題視するのならブルカではなく強制そのものを咎めるべきだし、実際問題として本当に抑圧され強制されてブルカを身に着けている女性は、ブルカが禁止されたら一歩も家の外に出られないという可能性すらあるわけです。それでは単に目障りな存在を排除したことにしかなりません。
とはいえ、ブルカを身に着けて家の外に出ることと一歩も外に出ないことは本質的に何が違うのかという容易ならざる問題は残る。
公共空間という視点からすれば、両者の間には殆ど違いが無いように思える。しかし彼女たちも、女性どうしの場面では当然のこととして素顔を晒したコミュミケーションを持っているし、それもまた一つの社会である。その意味では、ブルカを着けた女性に社会生活が皆無だとは言い難いのであって、そこには一体どんな社会が存在しているのだろうかと、興味は尽きない。
もっとも、女性だけの社会は、あくまでも点であって、点と点を繋ぐ線の空間においては、彼女たちの社会生活は実質的に無いに等しい。
ブルカを身に着けて街を歩くというのは、いったいどんな気分なのだろうか。自分がそうしている場面を想像してみる。外からは見られること無く、ヴェール越しに外の世界を覗き見る。家の中にいてレースのカーテン越しに外を眺めるような気分だろうか。それなら家の中にいるのと変わらない。
安部公房が描いた『箱男』の心理を連想する。見られること無く、こちらから一方的に見る。その非対称的な視線が「誰でもない者」としての匿名性を生み出す。ちなみに、やってみよう研究所のサイトに実際に箱を被って街を歩いてみたという秀逸なレポートがあって、実に面白い。このレポートでは、段ボールを被ることが「表現行為」であるという当人の主張は街の警察官に通用していない。
このような非対称的視線に対して社会の側が動揺するというのは大いに予想されることだ。私だって箱男が隣に住んでいれば良い気持ちはしない。ブルカを着けた女性が隣に住んでいても、やはり良い気持ちはしないだろう。しかし、その気持ち悪さは単に私がそう感じるという以上の根拠を持ち得るのかどうか。ここは考えどころだ。
匿名者の視線に対する非寛容は、果たして民主主義が機能するための前提条件なのか。それとも、ホスト社会と移民が織りなす文化的コンフリクトという凡庸な問題群に収斂するのか。「匿名の市民」というものが原理的に存在し得るのかどうか。
おそらく「市民社会」は箱男を許容しないだろう。しかし、私たちは一体いかなる罪で箱男を裁くことが可能なのか。安部公房が提起した難問は今もそこにあり、ブルカという現象に私の興味を強く誘う。
http://www.lemonde.fr/opinions/article/2009/07/29/la-loi-et-la-burqa_1223753_3232.html