2009年06月24日

国民国家の難しさ

ちょっと気になったCNNの記事。
仏議会がイスラム女性のブルカ禁止を検討、大統領も批判
パリ(CNN) フランス議会は23日、超党派の委員会を設置し、イスラム教の女性が伝統的に身に着けているブルカの着用を同国内で認めるかどうか検討すると発表した。
これに先立ちサルコジ大統領は22日の上下両院合同会議で演説し、ブルカについて「フランスでは歓迎しない」と言明している。
サルコジ大統領は「ブルカの問題は宗教問題ではない。これは宗教シンボルではなく、従属の象徴であり、さげすみの象徴だ」と断言した。
さらに「わが国で女性が塀の中に閉じ込められ、社会生活から切り離され、アイデンティティーを奪われるのは容認できない」と述べ、議会でこの問題についてさらに話し合うよう促した。
2009.06.23 Web posted at: 20:18 JST Updated - CNN

いかにもサルコジさんの言いそうなことだが、この議論は些か雑に過ぎはしまいか。

まず第一に、「ブルカが宗教シンボルではない」というのが、そもそも非常に怪しい。たしかに単なる宗教シンボルではなく「従属の象徴」であるというのはその通りだと思うが、同時に宗教的な象徴でもあると見るのが妥当だろう。ある一つのシンボルが宗教的なものか否かは、簡単に0か100かで判断出来るものではない。フランス政府としては宗教的な理由で禁圧するのではないと言いたいのだろうが、その辺りの匙加減は結構危うそうだ。

第二に「従属の象徴」だと言うのなら、実は殆ど世界中の民族衣装がそうだ。「ドレスコードと性別役割規範」と銘打って一年間講義が出来るほどに、服飾とジェンダーロールの関係は深く長い。ヨーロッパ世界で正装とされるイブニングドレス、あるいは日本の女性が着るキモノだって、見ようによっては「女性を塀の中に閉じ込め、社会生活から切り離し、アイデンティティーを奪う」装置だと言えてしまう。もっとはっきりした例を出すなら、かつてヨーロッパ中で流行ったクリノリンやコルセットが「従属の象徴」でなくて何なのか。どちらも今では流行らないファッションだが、それは法律で禁止されて廃れたのではない。ココ・シャネルのようなトップランナーの先見にも支えられつつ、人々のジェンダーに関する意識とモードが少しずつ変わって来た結果である。

ブルカは「従属の象徴」としての性格を多分に持っていると、私も思う。悪しき旧習だとさえ思う。思うけれども、それを変えるかどうかは、現にそれを身につけているイスラム教徒の女性たち自身の問題なんじゃないかな。結局は文化の問題なんだし、当事者の考え方や意識が変わらなければ、何にもならないでしょ。自由なファッションが先行して、それによって自由な行動規範が発現する、そういうことも当然有り得るだろうけど、あんまりそれを強調するのもヤクの売人みたいで気持ち悪い。いずれにしても政府が強要することでは無いと思う。イスラムの宗教国家が「ブルカの着用を強制する」のと同じくらいにバカらしいことだと思う。

ところがフランスという国は国民国家がタテマエで、「それが彼らの文化なのだ」という考えを嫌う。そのようなエスニックなサブグループが国内に存在することを許容しないのだ。革命を端緒とする共和制の理念は、それが「理念」であるからこそ、フランス国土の津々浦々に隈無く貫徹せずにはいられない。国民国家の難しい悩みである。

乱暴に言っちゃうと、明治政府の断髪令みたいなものなのかな。ちょんまげの何がダメだったかというと、要するに「身分を示すシンボル」だっからだ。手っ取り早く、見える所で文明開化を目指したという理由もあるだろうけど、国民国家たるもの国民の間に身分の上下があってはならないというタテマエは大きかった筈だ(そのくせ貴族制度なんかはしっかり作っちゃって、結構いい加減なんだけど)。

フランスは今でも真剣にそのタテマエを張ろうとしている。国民国家の難しいところである。
posted by 非国民 at 08:37| Comment(24) | TrackBack(2) | 歴史と文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「壊れる前に」でも話題になったのと関わる話ですね。

日本で言うと名前の表記を日本風にしろとかいうのも入るかな。近代国家の均質性志向にの例として。
Posted by kuroneko at 2009年06月24日 14:42
>ところがフランスという国は国民国家がタテマエで、「それが彼ら
>の文化なのだ」という考えを嫌う

これって、68年以前のフランスについては当てはまる気がしますが、少なくとも現在のフランスではないと思います。

またこれは国民国家の問題というよりは、むしろ、政教分離の問題が根っこにある気がします。

更に、政教分離の観点からまずいだけではなく、人権の立場からもどうだろうというのが、今回の議論の趣旨。

Le mondeによると超党派議員の提案ですが、言い出しっぺはM. Gerinという共産党の議員ですね。

また、Le Mondeは、上記のサルコジの発言はオバマ大統領の「親イスラーム文化発言」を意識したものだそうです。

また、私見ですが、2004年に「政教分離法」を通したシラクに対して、独自の路線を強調したがっているようにも見えます。

要するに、この問題は、決して「国民国家の均質性」の追求の問題ではなく、人権の問題として俎上に上がっていると見るべきです。

イスラーム文化をフランスの文化の1つとして認める方向で動いているが、人権の観点からどこまで認めて、どこからアウトとするかを真剣に考えなければならないところまで来ている、ということだと思います。

何故なら、重要な論点の1つに「イスラーム教に改宗したフランス人女性の人権をどうやって守るか」が挙っていますから。
Posted by 黒木 at 2009年06月24日 20:41
kuronekoさん
確かに黒木さんの言うように「均質性」の追求ではなく、「人権」という「普遍」が追求されていると見るのが妥当でしょうね。自由とか人権とか言うものは、必ずしも(というか全く)ヒトという生き物の自然な本性に基づいたものではありませんから、ひとたび例外を認め出せば、その後ろには踏みとどまるべき天然のラインなど何も無い訳です。理念である/でしかないからこそ、隈無く貫徹せずにはいられないというのは、そういう意味です。
今回の件からは、すべからく人は自由であらねばならないという「普遍」へのオブセッションが垣間見えますね。

黒木さん
>人権の問題として俎上に上がっていると見るべき
全く同意します。ただ、一方で「ブルカを身に着ける自由」はどうなるのか、そこが気になる訳です。
ブルカが「従属のシンボル」以外の何物でもないのであれば話は簡単です。人権とは、たとえ本人が望んだとしても放棄し得ないものと解すべきで、「自ら進んで従属の境遇に留まる自由」など誰も持たない。だから、ブルカを認めないというのは当然そうなるでしょう。
問題は、ファッションというものがそれほど簡単には割り切れない現象だということでしょう。「従属では無い他の何かのシンボル」としてブルカを身に着けるということは大いに有り得ることですから。
まさしく
>人権の観点からどこまで認めて、どこからアウトとするかを真剣に考えなければならない
問題として、非常に興味深いケースです。
Posted by 非国民 at 2009年06月25日 00:51
>問題は、ファッションというものがそれほど簡単には割り切れない現
>象だということでしょう。

2004年、学校でのスカーフの着用を禁止したシラクの「政教分離法」の時は、私もファッションをキーワードに、非国民さんと同じ意見を持ちました。

しかし、今回はその次元ではないと思います。例えば、いくら本人の意志だからと言って、DVを受ける権利は認められるでしょうか?「私が我慢すればことは穏便にすむのだから」と言って、夫を立てるため声を挙げない女性、こうやってDVは家庭内に閉じこめられることによって、確実に悪化します。

イスラームの独身女性が自分の意志でブルカを身に纏っているなら、確かに非国民さんの言う通りでしょう。しかし、夫から強制されているとしたらどうですか?そして強制されていること自体外部にもらしてはいけない、と言われているとしたら。

実際、夫が恐くて、空港のパスポートチェックの時にもブルカのヴェールを上げたがらない女性も多いそうです。

ファッションではないですが、イスラームや西アフリカの文化として一夫多妻制があります。フランスで、これは文化だからと言って一夫多妻制が認められるかと言えば、NOでしょう。でも、こういうった地域出身の男性は、これは文化だからと言って平気で複数の女性とつき合おうとする傾向があります。

実際に、私の女性の友人の中にも苦しんでいる人がいました。もちろん夫も友人ですから、微妙なんですが、苦しんでいた友人達のことを思うと、文化だからと言ってすべてが許されるわけではないと思います。
Posted by 黒木 at 2009年06月25日 06:35
DVは端的に犯罪なのですから、シンボルを叩く前にDVを行った当人を犯罪者として処遇すれば済む話なんじゃないかな。

もちろん、本人の意に反する服装を強要するというのも、それ自体が犯罪だと言えます。まさしくそれは、アイデンティティを奪い人格を支配する暴力の一形態に他ならない訳です。よって、夫によるブルカの着用の強制を認めないというのは当然の理なんですが、一律にブルカの着用を認めないというのはまた別の話なんで、それは如何にして正当化されるのかというのが私の疑問。

しかし一方で、ブルカというシンボルを社会の成員がどのようなメッセージとして受け取るか、これも無視し得ない問題です。ブルカの着用が「ジェンダー間における支配と従属の関係に抵抗しない意思表示」として機能する可能性は多分にある訳で、その点も考慮に入れると確かに判断は難しい。極端な例ですが「ナチズムではない他の何かのシンボル」としてハーケンクロイツを掲げる行為が、理論的には成立し得ても現実には通用しないのと同列の問題です。

この点に関しては、人権という普遍的な理念に照らしてどうなのかというよりも、現代フランス社会という固有の局面においてどうなのかという問題設定になりますし、黒木さんが苛立つ感覚も分かります。
Posted by 非国民 at 2009年06月25日 22:30
ブルカはシンボルではなく、まさにDVの道具そのものと僕は思っています。

>現代フランス社会という固有の局面においてどうなのかという問題
>設定になりますし、

おそらく、これは非国民さんが言うように、実際にフランス社会が直面している具体的な問題だと思います。

それを「国民国家」とか、おそらくは「人権の普遍性」という抽象的な問題にすり替えられることに、僕のいらだちがあるという非国民さんの指摘はまったくその通りです。

実際に、イスラームは既にフランス社会の一部です。日本で思われている異常に定着しています。イスラームのないフランスなど僕には考えられません。

だからこそ原理主義的行動に苛立つのです。
Posted by 黒木 at 2009年06月25日 23:11
実際にフランスに住み、その社会に接した人が言うんだから、そうなんでしょう。今回は勉強になりました。

関係ない話かも知れませんが、中学高校の頃の制服の問題を思い出しました。私はアレが大嫌いでしてねえ。制服の強制はアイデンティティを奪い人格を否定する暴力の一形態だと今でも本気で思います。それでも世の中には自ら望んで制服を着たいという人もいる訳で、その欲望は一体何なのかと当時も不思議に思ったものです。好きな服を着る自由は誰にでもある訳で着たい人は勝手に着ればいいんですが、彼らは本当に「この服」が着たいのか、それとも「制服」が着たいのか。たとえそれが「制服」でなくなったとしても「この服」を着たいと思うのか。その違いは大きいと思うんです。ファッションというものの簡単には割り切れない一側面ですね。
Posted by 非国民 at 2009年06月26日 01:15
中学高校の頃の制服やスカーフだったら、確かにファッションの問題だと思います。

でも、ブルカはファッションではないのではないか、という疑念があります。
Posted by 黒木 at 2009年06月26日 09:25
それは程度の問題っていうか、そもそも他人が決めて良いことでは無い様に思うのだが。
Posted by 非国民 at 2009年06月26日 20:30
だから、程度の問題ではない、というのがこれらの議員さんたちの主張なんですよ。スカーフ問題とは根本的に違うと。

それから、これらの議員さんたちも、イスラーム教徒も、フランスにとってたにんではありません。

繰り返します。これらの議員さんたちの主張は、「これは程度の問題ではない」ということなんです。この主張が妥当かどうかはさておいて、まずこれを理解しなければ、この議論の端緒すら開けない、と思います。
Posted by 黒木 at 2009年06月26日 22:16
何を着て何を着たくないかは、あくまでも個人の選択でしょ。本人以外は全て他人。他人に指図されることではないし、だから当然、配偶者が決めて良いことでもない。

女性の履くハイヒールだって、従属の象徴だと言えば言えるし、そこに社会的な強制力が働いていないかといえば皆無とは言えません。もちろんブルカのケースと比較すれば、その強制力には雲泥の差がありますが、それでも乱暴に言ってしまえば、程度の問題です。

ここで黒木さんを説得しても仕方がないんですが、要するに必要なのは、それぞれの社会が抱える固有の条件の下で「どの程度」をもってNGとするのかという緻密な議論の筈です。ヤヤコシイ言い方をすれば、どの程度をもって「程度の問題ではない」とするのか、です。単なる人気取りでないならば、その緻密な議論を避けて通ることは出来ない筈で、端緒すら開けないという意見には同意しかねます。

いずれにせよ、最終的に望まれるのはジェンダー間における支配と従属の関係を解消することでしょう。むろん完全にというわけにはいかないにしても、少なくとも「私は好きでハイヒールを履いています」という主張が説得力を持ち得るのと同程度には、です。

そうして支配ー従属関係の解消が実現した時に初めて「ブルカを着たい人は着れば良いし、着たくない人は着なければ良い。着るも着ないも本人の自由」という言説も成立する。たしかに順序としてはその通りで、現状「ブルカを着る自由」を持ち出すのは無謀だというのも分かります。

サルコジさんの論が雑じゃないかと感じるのは、その辺りをすっ飛ばして直裁にシンボルを叩いているように見える点なんですね。
Posted by 非国民 at 2009年06月27日 03:21
だから、これはサルコジの議論じゃないんです。超党派議員たちの主張であって、サルコジはそれに対して状況に応じたコメントをしただけです。

フランス国内では、これら超党派議員の機嫌を損ねるような発言をするのはマイナスだし、国際的には反イスラームといったイメージを持たれたくない、と、このような政治判断をしているだけです、サルコジは。

>何を着て何を着たくないかは、あくまでも個人の選択でしょ。

だから、この範疇の議論じゃないんです。例えば、アメリカでもヨーロッパでも日本でも、性器を露出するような服を着るような自由がありますか??ナチスの鍵十字をあしらったTシャツを身に着けて街を歩く自由がありますか??「私をレイプして下さい」と書かれたTシャツを着て街を歩くことを許して良いのですか?

スカーフをつけるか、つけないか、に関する議論だったら、非国民さんの意見の妥当性は分かります。

しかし、今回は、それとはまったく別の問題だと議員さんたちは言っているのです。

私から見て、非国民さんは議論の論点を把握されていないように感じています。それをせずに、この件に関して他国の立場から意見を展開するのは、それこそ乱暴で粗雑であると感じます。

とにかく、ハイヒールだの、学生服だの、コルセットといった、ファッションの議論じゃないんです。
Posted by 黒木 at 2009年06月27日 09:24
せっかくなので、ちょっと聞いてみたいんですが、黒木さん自身はどう思っているんですか?
Posted by 非国民 at 2009年06月27日 20:23
スカーフについては許容すべきだと思っています。理由は非国民さんが上で述べている理由と同じです。

ブルカについては完全に反対です。僕はブルカはシンボルではなく、拘束具そのものだと思うからです。

ただ、例の超党派議員さんたちが性急な法制化を目指すのは慎んで欲しいと思っています。なぜなら、性急な対策は原理主義者たちを挑発する事になってしまい、そうなれば、苦しむイスラーム女性が多数でることが目に見えているからです。

原則的には政教分離は尊重されるべきだと思っています。となれば、公共空間(学校等)でのスカーフ着用は禁止されるべきです(実際、2004年シラクの手によって禁止されました)。

しかし、もうちょっと段階を踏んでも良かったと思っています。また、「スカーフ禁止法案」が通った時に、僕がシラクに対して思ったことは、上で非国民さんが感じたと述べておられる事とほとんど同じでした。
Posted by 黒木 at 2009年06月27日 22:02
ブルカが拘束具的な性格を極めて強く持っているとは私も思いますが、黒木さんは「程度の問題ではない」と繰り返し強調します。
これはイヤミでもなんでもなく本当に分からないから質問するのですが、「拘束具そのもの」であるブルカを他の「拘束具的な」ファッションと分かつ決定的な差異は何処にあると、黒木さんは考えますか?
Posted by 非国民 at 2009年06月28日 23:16
>「拘束具的な」ファッション

例えば、これは、コルセットやハイヒールのことで良いのでしょうか?

その前提でお答えします。

ブルカの最大の問題は、顔を隠す事です。顔を隠す事は人格の否定と私は捉えます。

空港での出入国時のパスポートチェックはもとより、フランスでは小切手でものを買う(一般的です)時にも、身分証明書の提示を求められます。顔を照合するわけです。ブルカを身につけていたのでは、その照合が出来ません。ブルカを身につけるという事は、公共空間で顔をさらす事を拒否している事を意味しているからです。ということは、ブルカを身につける事は市民生活をおくる上で、絶大なる障害となります。

コルセットやハイヒールは、たとえ拘束的な意味を孕むと言え、あるいは女性の男性への従属を象徴している部分を持っているにせよ、1人の人間の表現として用いられているわけです。

対して、ブルカの趣旨とは、そのような個人の表現をする事を、1人の人間に対して禁じることなのです。

つまりブルカはファッションとして身につけられるのではなく、「ファッションをしない事の宣言」として身につけられるのです。そしてそれは完全なる人格の否定です。

スカーフの場合は、顔は出ます。ということで、お洒落として、ということはファッションの道具として身につける事も可能です。この場合、スカーフは決して宗教的象徴ではなく、イスラーム文化の象徴、かつ個人のファッションとしてコーディネートされることも可能になると私は考えています。

ブルカは、顔を隠す以上、個人の識別が出来ないわけですから(というか個人の識別を出来なくするために強制するわけです)、ファッションにはならない、と私は捉えています。
Posted by 黒木 at 2009年06月29日 06:47
子供向けの本でしか読んだことないけど、「鉄仮面」て小説があった。お城に閉じ込められている政治犯で、鉄の仮面で顔を出させないよう強制されていたんじゃなかったっけ。
顔を出すことを常に禁じるという行為を(禁じる主体が自分でも他人でも)、それは社会生活を送ることを禁じることだとみなすように、個人識別することを大前提とする社会があるということかなあ。

いささか黄表紙的な想像ですが、のっぺらぼうが多数歩いていて、彼らは(性別もわからないか)買い物なんかもして、でも、誰が誰とも区別がつかないって事態になったら、けっこう怖い。
のっぺらぼう宣言をした人が大挙発生して、社会の中で活動することに対するフランス社会の違和感、恐怖感ということかしらん。

そう考えると、「抑圧されたイスラム女性」というストーリーの前に、なんか不気味な気がしてくるなあ。
Posted by kuroneko at 2009年06月29日 13:40
黒木さん
顔を隠すことの問題、これは「決定的な差異」であろうかと、私も思います。身分証明書の提示が必要な状況で障害になるというのも当然の話。本人確認の意味をなしませんからね。そのような場面での規制は当然だと思います。

フルフェイスのヘルメットをかぶって銀行に入れば強盗扱いされても仕方がなく、それをファッションの問題とは言わないのと同じようなもんでしょうか。

そう言う意味では基本的に同意見なんですが、その上で敢えて思うことを二点。

第一に、本人確認が必要な場面でそれが出来ないという具体的な弊害を懸念するのであれば、まさしくその具体的な弊害を指摘すれば済む話です。そこに女性への抑圧だの従属だのといった論点を持ち出すべきでは無いのではないか。

第二に、実態としてスカーフとブルカの間に存在する連続的なバリエーションをどう扱うかという問題。目だけを出してあとは全部隠すニカーブなんかは、上記の弊害を考えれば明らかにNGでしょうが、スカーフとニカーブの間にも、多くのバリエーションがあります。これらは、地域の習慣や、その時々の流行、あるいは個人の考え方によるバリエーションでもあって、着ている本人の意識からしても全く別物と見なすことは難しいでしょう。しかし実際問題としては、連続したグラデーションのどこかに人工的な線を引くしか無いわけで、その作業は言うほど簡単じゃないと思うわけです。

私は「程度の問題」だと言いましたが、程度の問題だから何でもありだと主張するつもりでは全くありません。許容され得ない「程度」というものは確実にあります。
少し前のコメントで黒木さんが
>性器を露出するような服を着るような自由がありますか?
という提起をしてますね。
自己決定権の原理原則からすれば、その自由はあるのですが、少なくとも現代の日本社会という固有の局面において許容され得る「程度」では無いというのが私の考えです。
Posted by 非国民 at 2009年06月30日 11:53
kuronekoさん
ブルカを身に着けた女性に「社会生活」が全く存在しないのかといえば、そんな筈は無いのであって無いのであって、そこには一体いかなる「社会」があるのだろうかと、とても興味が湧きます。

コードに触れるか触れないかというギリギリのラインでどう着崩すかが、ファッションを進化させる大きな原動力だったりもするんですよね。
Posted by 非国民 at 2009年06月30日 12:01
>女性への抑圧だの従属

そのブルカが、女性にだけ押し付けられている、という事でしょう。

>「社会生活」

公共空間における社会活動は限りなくゼロに近いでしょう。まぁ、公共空間とは何か、というのはこれもまた重要な論点ですが。

それはさておき。

ただ、フランスという国は、政教分離という事に対して、徹底的なまでに厳格な態度を取る国です。で、細々な理屈はさておき政教分離に関しては「ダメなものはダメなんだ!」という考え方です。正直、僕も住んでいて「え?」と思うような事がありました。でも、良くも悪くもそれがフランスです。とにかくぐちゃぐちゃ議論するより、とりあえず、線を引いちまってそこから考えよう、という姿勢をしばしば取ります。

ですから、この問題に関して「サルコジが...」という論点は少しずれている気がするのです。

このような政教分離に対する強いこだわりは、明らかに「フランスナショナリズム」の一側面のように思うのですが、まぁ、大概の政治家あるいはインテリはそれを「ナショナリズム」の名の下に議論する事を嫌います。「我々が掲げているのは普遍主義であって、ナショナリズムとは正反対のものだ!」というのがその主張でしょう。

ある時、我らが師匠吉野さんと話していて「そりゃぁ、黒木君みたいな外国人がやって来て、その国のナショナリズムを研究したいなんて言い出したら、嫌われるに決まっているじゃない」と指摘されました。また、その話を共同研究者のフランソワーズ・ドゥエにしたところ「だから前から私が言っているじゃない!あなたみたいに、彼らに正攻法で挑もうとしたって跳ね返されるだけよ」と言われてしまいました。

と言いつつ、フランソワーズみたいに、そういう議論を面白がる学者がいるところもフランスの面白いところなんですが。
Posted by 黒木 at 2009年06月30日 15:18
というかサルコジはこの議論を「対イスラーム」の議論にしたくないんですよ。

1つには、オバマが最近行なった「親イスラーム」発言に気を使って、アメリカの立場からずれていない事に関して釘を刺しておきたいというのがあるでしょう。

2つには、地中海沿岸の国々との連合をまだまだ国際政策の重要なパーツと考えているので、当然、アルジェ、チュニジア、モロッコなどの旧植民地の国に気を使っているというのがあるのでしょう。

だから、議論の論点をそらしたくてたまらなかった。だから、「女性への抑圧だの従属」という面を必要以上に強調してみた、ということだと思います。

そこに非国民さんは不自然さを感じたのではありませんか?
Posted by 黒木 at 2009年06月30日 15:30
>そこに不自然さを感じたのでは?
慧眼おそれいります。

でもまあ、女性への抑圧だの従属だのと言わずにはいられないのが、いかにもフランスらしいところであり、フランスの面白いところでもあり、時としてフランスが嫌われるところでもあるんだろうなあとは思います。

それはともかく、少なからぬイスラム教徒の(あるいはイスラム教徒以外の)女性が抑圧され従属しているという状況が、現実にあるわけです。もちろんこれは看過し得ない問題でしょう。しかし、この点からブルカを問題とするのなら、ブルカそのものではなく何よりもブルカの「強制」が咎められるべきですし、その目的に沿ったプログラムが必要とされる筈です。こんなことを黒木さんに言うまでもありませんが、この場合の「強制はダメ」というのは、いわば民主主義が機能するための前提条件ですから、対イスラムの問題ではないし、文化的なコンフリクトという文脈での議論は全て無効だと言えます。

実際問題として、本当に抑圧され強制されてブルカを身に着けている女性は、ブルカが禁止されたら一歩も家の外に出られないという可能性すらあるわけです。それでは単に目障りな存在を排除したことにしかなりません。
Posted by 非国民 at 2009年07月01日 01:10
1つだけお願い。

サルコジの言っていることを「フランスは」と一般化しないで下さい。僕の周りには怒り狂う友人が山ほどいます。
Posted by 黒木 at 2009年07月01日 08:50
たしかに私が軽率でした。これは怒られても仕方がないですね。

公共空間という視点からすると、ブルカを身に着けて家の外に出ることと一歩も外に出ないことは実質的に何が違うのかという容易ならざる問題が浮上して来ます。が、しばらく忙しいので、その話はまたどこかで。
Posted by 非国民 at 2009年07月02日 00:17
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