いわく
選挙が終わって1週間もたたないうちに支持候補の方の名前をきれいさっぱり忘れていたのにはズッコケました。
そんなことが本当に有り得るんだろうか。
諸方面に探りを入れてみたところ、どうやら創価学会においては選挙運動そのものが組織の重要な活動と位置づけられているらしいのだ。選挙は、組織を引き締め結束を維持するために欠かせない「イベント」であり、たしかに創価学会においては他にそうした役割を果たすものは見当たらない。
日蓮正宗との決別によって、創価学会は大石寺という「聖地」を喪失した。だから学会員は「巡礼」が出来ない。学会独自のと言えるほどの宗教儀礼も発達していない。聖地への巡礼や儀礼への参加は、信者にとって、自らが一つの教団の一員であることを確認する極めて重要な行為であり、教団にとっては信者同士を結びつけるための装置である。「信仰を同じくする者」の紐帯を実感させるこうした装置の不在は、信仰の形骸化、ひいては教団の衰退にも繋がりかねない。
現実に、聖地なき宗教と化した創価学会では、信者が一同に集まる場所もなければ、その機会もない。かつては世界青年平和文化祭がその役割を補完していたようだが、いつの間にかそれも行われなくなった。
そんな中で、創価学会が全組織を挙げて取り組むほぼ唯一のイベントが、選挙なのだ。選挙運動に参加することによってのみ、一般の信者は組織のメンバーであるという一体感を得ているのかも知れない。だから、個々の候補者やその政策よりも、選挙運動に参加すること自体が意義を持っているという可能性も高い。それに、勝ち負けのはっきりしている選挙というイベントは、仏法を勝負で語る創価学会にとても似合っている。
しかしその様相は、議会制民主主義の想定する「政党とその支持者の関係」からは、極めて掛け離れたものに思えてならない。公明党の議員諸子は、それで良いのだろうか。
はい(断言)
議員であるためには、模範的な学会員でなきゃいけないんじゃないでしょうか。うっかり「政治」に目覚めたりすると、初代委員長や書記長みたいな目にあわされます。
いずれにせよ、現世利益を掲げる宗教は、生きているうちに分かりやすい結果を見る訳ですから、それが強みであり、同時に弱点にもなりえます。高度成長期のように日本全体が豊かになりつつあった時代には「信仰のおかげで豊かになれた」と実感する人も多かったのでしょうが、いまの御時世ではそれも難しいでしょう。いつまでも豊かになれない人は「信心が足りない」と見なされて、結果的に組織にいづらくなるという可能性もあります。
創価学会という教団は、あまりにも時代のニーズに合致して一気に勢力を拡大させたが故に、時代の移り変わりとともに必然的にその活力を失いつつあるとも言えそうです。
でも、「選挙の勝利」を現世利益とするには、具体的な利益がないから、やはり無理がある。そこで考え出されたのが、以前の地域商品券だの低額給付金なんでしょう。政策的に考えたのでは不思議としか思えないけれども。
「高度成長期のように日本全体が豊かになりつつあった時代」には野党でもいいけど、今の状況じゃ与党になって、オコボレを期待するしかないんでしょうね。