
江州音頭。夏の祭りの騒乱に、諸行無常の響きあり。
江州音頭史上、空前絶後の問題作にして大傑作と評されながらも、長らく廃盤であった幻の名盤である。オリジナルは1991年の作。昨年(2006年)ようやく、未発表のライブ音源も加えた感涙の復刻と相成ったのだ。
今聴いても、このカッコ良さは尋常じゃない。
ゆったりした河内音頭のリズムとは違って、桜川唯丸の江州音頭にはオリエンタル・ファンクの激しさが伏在している。
重戦車のごとく16ビートを刻むドラム、和太鼓、ベースに加え、ギター、ウクレレ、シンセ、コンガ、ティンバレス、銅鑼、錫杖、法螺貝・・・と常軌を逸した楽器群が踊り狂う様は、まさしく異界のオルタナティブ音頭と言う他ない。
その騒乱に乗って、浪曲ばりの喉声でコブシを振り回す唯丸師匠のヴォーカルが乱れ飛ぶ。
バックを固めるのは、佐原一哉率いるスピリチュアル・ユニティの面々。名うてのジャズ集団にして、世界でただ一つ河内音頭と江州音頭と沖縄の島唄を伴奏するバンドである。当時デビューしたばかりのネーネーズも、さりげなく参加している。
錫杖や法螺貝といった修験道系の小物楽器が「異形」感を醸し出しているが、江州音頭はもともと中世に山岳密教の祭典を山伏が発展させた祭文を直接のルーツとするもので、これらは必須のアイテムらしい。むしろ、ドラムやギターの方が異形なのだ。
アルバムタイトルの「ウランバン」にしてからが、ジャケットに「ullambana」と記されている通り、盂蘭盆会の意である。江州音頭の本質は盆踊りの音楽なのであった。
関東に暮らしていると、盆踊りに生バンドの演奏という事態をなかなか想像出来ないが、関西圏ではさして珍しくない光景であって、江州音頭もそのバリエーションの一つと言えよう。
唯丸師匠自身も「歌手」ではなく「音頭取り」を自称している。
それにしても現代に響く祝祭の喧噪、それはまた何と俗な魅力に溢れていることか。
喧噪の度合いも半端じゃない。
例えば、25分に及ぶ狂気のトラック「唯丸節」。ちゃっきり節から證城寺の狸囃子〜般若心経〜ブンガワン・ソロをメドレーで繋げてしまうなどという暴挙を、一体どこの誰が許可したのか! さらにライブバージョンでは「證城寺の狸囃子」の間奏にジェームス・ブラウンの「ゲロッパ」が挟まるという徹底したカオスが展開している。あるいはまた「聖者の行進」のバックにチャンチキと法螺貝の音が聴こえるのは、いかなる因果の応報なのか。
そもそも、ジャパニーズ・ラップに般若心経を乗せるなどという発想を、いったい彼以外の誰がなし得ただろうか。
1995年、稀代の怪人桜川唯丸は、この「ウランバン」一枚を残して、あっさりと二代目にその名を譲り引退してしまう。復刻されたこの【ウランバンDX】が、彼の声を聴くことの出来る唯一の音源である。
そして、今回、新録が一曲だけではあるが収録されている。今回の復刻のためだけに初代唯丸師が11年ぶりに復帰した新作である。これがまた素晴らしい。
しっとりと流れる美しいトラックに乗って、いささかも衰えることのないコブシ回しが心を打つ。しみじみと聞き惚れていると、渋い濁声が「ひとの いのちのぉ はぁーかーな〜ぁぁけ〜ぇぇれー」などと、とんでもないことを口走っている。
まこと、夏の祭りは祇園精舎の鐘の声、である。
「仏供養の盆踊りとはいってもそこに先祖が帰ってきているのかどうかは本当は解らない。踊っている人の単なるストレス解消だけかもしれない。でも結局毎年来るということは何かちょっと心の平安に深いところで結びついているのではないか」と初代唯丸は語っている。
これを聴かずにアジアンポップスを語る事なかれ。
合掌。
いいですね。私は古い方は持ってないのです。
リアルタイムで聴いてたなんて、羨ましい。
ただ、「夏場になると」という感覚はあまりないですね。当方、盆踊りという文化と疎遠なまま育ってしまったので、祭りの季節感というのが良く分かっていないのかも知れません。