先日の記事「Omar Sosa【Sentir】」のコメント欄でpontyさんから教えてもらったページを入り口にして、カンドンブレのことを少し調べてみた。そして驚いた。
どうやら私は大きな勘違いをしていたようだ。
漠然とだが、マジョリティのカトリック教徒に対して少数のカンドンブレ信者がいる、という図式を想定していたのである。
「秘教」というイメージが、私の中で勝手に先行していたらしい。
カンドンブレ。それはキューバのサンテリアなどと同じく、西アフリカのヨルバ人の精霊信仰をルーツとする。奴隷貿易によってブラジルへと渡った黒人たちによって、かの地で信仰され続けたものだ。
現在では、アフロ・ブラジリアン独自の宗教というわけではなく、白人の信者も多いそうだ。
ブラジル全土に浸透しているが、その中でもアフリカ系が特に多く住む北東部のバイーア州が中心で、そこでは人口の9割近くが何からの形でカンドンブレを信仰しているという。
そして、ここが重要な点なのだが、ほとんどの人がカトリックとカンドンブレを同時に信仰しているらしいのだ。カトリックのミサに行かず、カンドンブレの祭儀にだけ参加するという人は、極めて少数なのだ。
という状況なので、カンドンブレ信者が一体何人ぐらいいるのか、諸説あってはっきりしたことは分からない。ブラジル全体で人口の2割程度、とも言われているが、どうなのか。日本で神道の信者を数えるようなもので、統計そのものに意味が無い可能性も高い。
ブラジルのキリスト教が多神教的な要素を強く持っていることは知っていたし、教会ごとに守護神がいたりして面白いなあとは思っていたが、そもそも信仰のありようが重層的なのだ。まさしくシンクレティズムである。
やはり熱帯に一神教は似合わない・・・
そんなことを思うのは、ふとインドネシアのジャワ人を連想したからだ。
ジャワ人はイスラム教徒であるが、彼らの信仰も多分に重層的であり、アラブの敬虔なムスリムなんかに比べると、けっこう不謹慎と言うか、おおらかと言うか、ちょっと変わっている。
例えば火山が噴火した時など、ジャワ人も当然アラーの神に助けを求める。ところが「今回はどうも効き目が無いようだ」となると、ヒンドゥー教の神々を思い出して祈り、それでも駄目なら、ヒンドゥー以前の土着の神々に祈り始める。
この節操の無さが、多神教の核心なのであって、日本に生まれ育った私には実に分かりやすい感覚である。
一神教が、とかくストイックになりがちだったり、「すべては神の意志だ」と開き直ったりするすることを思えば、このような無節操は、むしろ微笑ましいジャワ人の美徳である。
ちなみに、ジャワ人の重層的な信仰の有り様は、単に熱帯だからというだけでなく、火山の存在も大きく関わっているように思う。
インドネシアは日本顔負けの火山国である。
なかでもジャワ島は、日本の本州の6割にも満たない面積に1億2千万の人口がひしめき、そこには富士山クラスの活火山が1ダース以上も並んでいるのだ。
そんな環境で暮らしていれば、やはり「山のカミサマが怒ってる」みたいな発想が生まれて来るのかも知れない。
2006年06月20日
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ものすごく乱暴に言ってしまえば、共同体の安定を目的とする民族宗教に対して、個人の救済を追求する世界宗教、という構図があるわけです。
しかし、共同体の安定と個人の救済は、必ずしも、こちらを取ればあちらが立たず、という性格のものではありません。どちらも捨てがたい、というニーズは当然ある訳ですし、そのような無節操が時代遅れだと非難されるいわれも無いでしょう。
むしろ、このような重層的信仰に近代を超克する智慧が隠されているように私は感じます。
まあ、いずれにせよ、宗教の優劣を論ずるのは愚かなことです。