キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に(読売新聞2009.11.10)
小沢さんいわく
キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ
言ってくれるじゃないの。
小沢さんの真意は分からないが、本気でそう思っているのだとしたら、度し難いとはこのことだ。それ以前に、どう思っていようが人前で言って良いことと悪いことがあるだろう。これではまるっきり森喜朗と同レベルの妄言である。かつて森さんが「神の国」と言った時には、私は神道の信者ではないので「本当に頭悪いなこの人は」と呆れただけだった。しかし今回は事情が違う。私は仏教徒なのだ。
こういう場合、仏教徒が率先して怒るべきだろうと思う。私は怒っている。まったく、少しは勉強してもらいたい。ついでに言えば、幼稚な思い込みによる小沢さんの誤りを正さない「全日本仏教会」とやらも、だらしない。
つまりベトナムは仏教ベースで平和な国で、アメリカはキリスト教による世界征服を企んで、ベトナムを侵略したんだ、とかいう結論も導けそうですね。
貴兄のフレットレスベースが、アネの家で発掘されたそうだ。どう致しましょうか? 連絡ください。
自分たちだけでは仏教団体と思っている連中へのサービス、そして、カメや社民に「おまえらの代わりはいるんだ」というメッセージかも。
たしかに予想されたことではありますが、その言葉の貧しさには驚き呆れます。
南郷はん
サービスになってるのかなあ、現に仏教徒である私は怒ってるんだけど。しあしあの団体のことだから分かりません。
政治家の語る言葉の貧しさは、政治の貧しさそのものな訳です。そう思うと腹が立つやら情けないやら。
できれば、こういう知的な(というか、当たり前な)言葉を発する人が、政治家だったり宗教家だったり、ひいては、身近で近所のお寺さんや町に一人位はいる誰からも尊敬されるおじさんおばさんだったりすると、本当に、のびのびとした暮らしができるのでしょうね。
以下引用:
(とりわけ、人が自分について説明するときに、互いの共有点を述べるかわりに、“私は仏教徒です”“私はキリスト教徒です”“私は無心論者です”と二次的な特徴を述べてしまうことがいかに多いかという点を指摘され)
「他者の権利を尊重することです。他者の意見を尊重しなければなりません。私は仏教徒、私はキリスト教徒、というふうに二次的な特徴を過度に強調してしまうと、“私たち”“あの人たち”という感情が生まれます。“あの人たち”という感情が生まれてしまうと、いじめよう、攻撃しようという誘惑に駆られやすくなります。今日(こんにち)、私たちは、経済的、環境的に、人間として共通の利益を求めていく必要があります。共通の目的に向かって働きかけねばならないのです。常々申し上げていますように、“私たち”と言うときには世界中の人々のことを指していなければならないのです」
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/2009japan/report/091103.html
まぁ、ちょっと、話題がずれてるような書き込みですが、許してね。