コスプレという身体文化が興味深いと書いたその翌日、さっそく東京ドームシティで「コスプレの日」*1に遭遇した。
とっくに見慣れた筈のコスプレ風景が、今日は違って見えるから不思議なものである。
何者かになる、あるいは何者かであるために装うのではなく、何者でもなく存在するためにこそ装う。既存のコードで意味付けられ、既存の役割へと嵌め込まれることを拒絶する、ささやかな抵抗的行為として、コスプレなる文化は実践されているのかも知れない。だからこそ、ディティールを創り込めば創り込むほど、それは都市の異物として立ち現れ、社会的な<らしさ>の向こう側へと越境する。
そう思って見ると、コスプレガールたちの「意思表示」が、何かしら頼もしくも感じられた。
コスプレのことなど知らなくても、私が生きていくのに困りはしない。しかし、知ることによって確実に世界は変わったのだ。より面白く、より味わい深く、そして多分、少しは生きやすい世界へと。こういうことがあるから、読書という悪癖は止められない。
*1 私が勝手にそう呼んでいるだけであり、正式なイベントの名称は知らない。
2011年10月16日
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コミケ時にTFFで開催する「となりでコスプレ博」略してとなコスもTFFで、「コスプレ博inよみうりランド」はよみうりで呼称されてます。
それはともかく、コスとして最近興味があるのは女装子さんですね。単純な「女装」でもバンド系でもない「男の娘」たち。
同じコス、同じ非日常でも、キャラコスと異なる精神性がそこにはあるようです。
その点は私も興味があります。性自認と性他認が鋭く交差する際どい領域ですからね。性別違和感型の女装の場合、他者の視線による承認と言いますか、要するに社会の中で一応は「女」として扱われなければ「女である私」の自己表現に成功したとは言えない訳で、そのためには既存の性別役割という枠組みに、ある程度は適合しなければなりません。
女性性を敢えて演じる(doing female gender)という、いわば二重に引き裂かれた状況が、より複雑な精神性に繋がっているように思います。
三橋順子『女装と日本人』講談社現代新書2008を読んでいますが、とめどもなく面白いです。これはお薦め。
ついでに、と言ってはなんですが、堀江有里『「レズビアン」という生き方』新教出版社2006も一読の価値あり。