そんな話を若い時に聞いたことがある。そして、まあその通りだなあと思う歳になった。恥ずかしながら、色んな事がどうでも良く思えてしまう。悲しい。
先だっての「国葬」だって、かつての私なら激しく怒っていたと思うのだ。いや、今だって怒っていない訳ではない。怒ってはいる。でも、往年とは熱量が違うことは自覚せざるを得ない。何だろうこの現象は。
「国葬」決定のプロセスには言いたい事が山ほどある。民主主義を愚弄する暴挙だとも思う。ただ、その暴挙に対して、怒りもさることながら「そういう国なんだから仕方ないじゃないか」という思いも渾々と湧き続けるのである。
達観、というのとは違う。覚悟、とも違う。そんな上等なものではない。諦念、あるいは無力感、と言う方がしっくりくるか。
「そう言う国なんだから仕方ないじゃないか」という思いは、必然的に、私(たちの世代)が「そういう国」にしてしまったのだという自省に繋がる。
怒る気力は衰えたが、若い人たちに対しては本当に申し訳なく思う。