炊飯器が壊れたのは昨年の元旦だ。
その記事は今でもトップページに残っていて、己の筆不精を可視化する。精進せねば。
以来、米を炊かない暮らしを続けてきた。慣れとは恐ろしいもので、さしたる不便を感じることもなく「そういう人生か」とばかり、ずるずる生きて来た次第である。
そんなこんなで再び年が明け、暇に飽かせてよしなきことなど思いつるに、そうは言ってもやはり炊飯器はあったほうがいいのでは、と思い至った。
思い至れば、炊飯器などすぐ近所で売っている。徒歩30秒ほどの店で買って来た。複雑な機能は求めていないので、小さくて一番安いやつを買ったつもりである。
それでも今時の炊飯器は凄い。一番安いやつを買ったつもりなのに、途方もなく色々な機能が付いている。米の銘柄がどうだとか、早炊きだの省エネ炊きだの、炊き具合の硬めだの普通だの、他にも散々あって昭和の教育を受けた頭が追いつかない。正直、家庭用の炊飯器にここまでの多機能が必要なのかと疑問ですらある。
昨年の元日に壊れたブツには、炊飯ボタンとタイマー用のダイヤルだけしか無かった。電源ボタンすら無いという清々しさである。コードをコンセントに差し込めば即ち保温モードになり、ボタンを押せば炊飯が始まる。炊飯が終われば即ち保温モードになり、保温を終わらせるにはコードをコンセントから抜くしかない、のであった。30年も使っていたので、炊飯器とはそいうものだと思っていた。不覚である。そして今や、米の銘柄によって炊きかたが変わるという発想に驚愕するのであった。
残念なことに、銘柄の選択肢の中に「ふさおとめ」は無かった。