2021年09月30日

パチンコ未経験者が『パチンコ』を読んだ。

ミン・ジン・リーの小説『パチンコ』を読了。Min Jin Lee - PACHINKO。著者名は東アジア風の呼び方だとイ・ミンジンといったところか。日本語版は池田真紀子訳、文藝春秋2020。

少し前に読んだ書評記事が気になって、というか、その記事のコメント欄が凄すぎて気になっていた一冊だ。まあ何が凄いって「読んでないが中身は想像がつく」という超能力者が雲霞のごとく押し寄せて酷評しまくっていたのだ。およそ読書人にとって、読んでいない人のコメントは高評価だろうが低評価だろうが全てゴミである。そんな当たり前の事に想像が及ばない人たちというのは、いったい本を何だと思っているのだろうか。

さて、そんなわけで気になっていた一冊だが、読み始めて一気に引き込まれた。良い話だ。読んで良かったと本当に思う。著者はコリア系アメリカ人。日本に住み着くことになったコリアン一族4世代の数奇な運命を紡いだ物語で、1910年から1989年にまで至る長い話だ。上下巻700頁の大作だが、なかなかのページターナーで、長いとは全く感じない。まあ英語圏の小説は概して長いので、これぐらいは普通だし。

アメリカではかなり評判になったらしい。まあ何となく分かる。ホッセイニの時にも思ったが、いかにもアメリカ人が好きそうな話ではある。移民の苦労話と家族の絆、加えて逆境に屈しない信仰心、まさに鉄板の組み合わせだ。その「出来過ぎ感」だけは少し引っ掛かったが、それでも良い本を読んだという思いは変わらない。重ねて言うが、読んで良かった。
 
posted by 非国民 at 14:22| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月04日

天皇統治の正当性

『アマテラスと天皇』という本を読んでいて、これがなかなか面白い。千葉慶2011吉川弘文館。

明治政府の推し進めた国民教化運動。それは昔日の信仰への復古ではなく、新しい「国教」を創造する試みだった。とまあ、ここまでは知っていたが、その「国教」が一神教であらねばならぬと強く希求されていた、という指摘が新鮮だ。

教義の構築に伴って、伊勢神宮を頂点とする神社ヒエラルキーが確立していく。その紆余曲折を見ると、宗教シンボルを政治利用することのリスクを当時の政府も理解していたことが分かる。

彼らの危惧したリスクは後に現実となリ、暴走したシンボルは天皇と一体化して「現人神」と成り果てた。
 
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2020年06月12日

分からない面白さ

松原隆彦『宇宙は無限か有限か』を読了。光文社新書2019。この分野の研究は今世紀に入ってから凄まじく進んでいるので、基礎的な知識ぐらいはアップデートしようと最近読み漁っているが、この本は抜群に面白い。

結論を言ってしまえば、この宇宙が無限か有限かは分かっていない。もう少し言うと、「観測可能な範囲の宇宙」においては有限であるとする根拠は見つかっていない。しかし、そう言われても、では「観測可能な範囲の果て」に行った時に何が見えるのか、凡人の疑問は尽きない。無限というものは、どうにも人の妄想を駆り立てる。

本書は、その疑問の核心に迫るべく様々な角度からスリリングに掘り進む。分かっていない問題について、それがどのように分かっていないのかを知ることが、この上なく楽しい。分かっている問題なら答えを聞いておしまいだが、分からないからこそ妄想し続けることが出来る。

特に予備知識がなくても十分に楽しめる一冊だが、場の量子論について少しは知っていた方が話を追いやすいかもしれない。ただ、残念なことに場の量子論を素人向けに解説した一般書は非常に少ない。殆どの専門家は数式なしで説明することは不可能と考えているようだ。お勧めなのは吉田伸夫『素粒子論はなぜわかりにくいのか』技術評論社2013。

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2017年06月03日

読め、そして驚嘆せよ

ハードカバーで小説を読むようになったのは、いつ頃からだったか。若いうちは片っ端から文庫本だったように思う。少なくとも日本人作家の小説は必ずと言っていいほど文庫本で読んだ。

ハードカバーを買う意味が分からなかったのだ。何年か待てば文庫で手に入るのだから、そう思っていた。

ところがどっこい、齢を重ねると、その「何年か」が待てなくなって来る。この心境の変化を当時は予想もしなかったが、なるほど、生きている時間が残り少ないというのは、そういうことなのかとしみじみ察する。

というわけで今日のお題は松浦理英子の最新刊『最愛の子ども』。そりゃあもう待てないでしょ。いや、若い頃なら待ったのかな。とにかく、待てない私は4月末の発売とほぼ同時に買い込み、でも5月はなんだかんだで忙しくてやっと読了。

いやあ良いものを読んだ。素直にそう感謝する。「わたしたち」という曖昧な主語(なんとなく想像はつくものの「わたしたち」が誰なのかについて作品中では明らかにされない)が、「最愛の子ども」を見守るその視線の優しさに稀有な情感を加味していて、しっとりした読後感は格別。

松浦理英子は寡作な作家で、デビュー以来40年を経て発表された作品は2桁に達していない。しかしそのどれもが濃密な傑作で、全くハズレがない。その中でも今作は驚嘆すべき傑作だと思う。常に何らかの意味でセクシュアリティの様相をテーマにしてきた彼女の探求が、ついに途方もない境地にまで達した瞬間を、ここに見る。

繰り返すが本当に良いものを読んだ。全力でお薦めする。まあ若い人は文庫本になるまで待ってもいいけどね。
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2017年05月04日

『カブールの燕たち』

読了。

うーん、ちょっとどうかなあ。ホッセイニが凄すぎたのかも。
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2017年04月21日

物語のチカラ

カーレド・ホッセイニ『そして山々はこだました』読了。

良い話を読んだ、と素直に思う。長生きして良かった。

まずもって本当に上手い。これほどの奥行きを持ったエピソードの集積をきっちりと紡ぎ上げ、しかも読み難いということがない。大変な力量だと思う。これが三作目だというから凄い作家だ。しかも作家になる前は医者だったというから並みの才能ではない。そしてなお凄いのは、上手いだけではないという点だ。奇抜な設定や妙に凝ったプロットなどの小手先は一切なく、ひたすら物語そのものが持つ圧倒的なチカラに引き込まれる。これこそが小説を読む愉悦。

絶対に読んで損はない一冊だが、早川書房さんは増刷するつもりが無いらしい。日本では流行らないのか。そんなこともないと思うのだが。ちなみにアメリカではべらぼうに売れたらしい。確かにアメリカ人が悦びそうな話だ、とは思った。あの人たち、家族の話が大好きだからなあ。
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2017年04月17日

消えた本

紙の本でも消えることがある。

せっかく買った電子書籍のデータが何処かへ消えてしまった。。。というような話は、ちょっと前までよく耳にした。若い人には信じられないかもしれないが、私らの年代や、もっと上の世代だと、そこそこ「ありがち」な話だったりする。それが嫌で、という訳ではないが、私は専ら「紙の本」派だ。

だが今回はその「紙の本」が、何処かへ消えてしまった。全く理由が分からない。

少し前に、アフガニスタン出身の作家カーレド・ホッセイニの『千の輝く太陽』を読んだ。これが何とも凄い傑作で、久々に「長生きして良かった」と思える読書体験だった。でもって今は同じ作家の『そして山々はこだました』を読み中。下巻に差し掛かって益々面白い。もっと前の作品も読みたくて仕方がないのだけれど、すでに絶版のようで、早川書房には強く再考を促したい。

そういえばヤスミナ・カドラがアフガニスタンを舞台にした小説を書いてたよなあ、たしか『カブールの燕たち』。まだ読んでないけど結構前に買って積んであったはず。そう思って机上に聳え立つ未読本の山を仔細に探るも、これが無い。

絶対に買ったはずなんだけど、どこに消えたのだろう。全く分からない。そして、どんなに探しても無い。ひょっとして、実は読んでいて、それほどとも思わず既に手放したとか。いやいや、いくら何でもそこまで忘れるか。

仕方が無いもう一度買うかと気軽に考えたはいいが、これまた今では入手が難しいのであった。どうも初版しか出ていないようなのだ。ネットで調べると紀伊国屋さんには在庫がなく、丸善さんを当たると千葉&東京では唯一多摩センター店に在庫あり。結局仕事帰りにとてつもなく遠い寄り道をして買って来た。

もう何やってるんだ俺。そして早川書房は再版を出せヤスミナ・カドラだぞ。
 
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2016年10月07日

安直な役割期待が残念

吉村満壱『バースト・ゾーン』を読了。

巷で評判だった『ボラード病』がそれほどでもなく、正直言って「緩い」印象だったが、こちらは凄い。いや、凄気持ち悪い。ていうか気持ち悪い。でも凄い。よく練られた設定に緻密な描写。仕上がりはヘヴィーな純正SFで、さすが早川書房。

間違いなく傑作ではあるんだけど、ちょっと気になった点がひとつ。話の流れが、あまりにも男に都合よく出来すぎてはいまいか? 中盤ぐらいまで読み進んだあたりで気になり始め、最後まで引っかかったまま読み終えた。読み終えてもやっぱり思う、男どもに甘くはないか?

話の核心に直結する部分であれば、むしろ気にならなかったのかもしれない。そうではなく、プロット上の必然とは言い難いところで、あまりにも男に都合よく出来すぎているように感じるのだ。男どもの身勝手な欲望こそが世界を破滅へと至らしめる、という作品ではない。そう読むことは難しい。であれば、男どもの身勝手な破滅願望を安易に肯定している、ということになり得まいか。

細かいといえば細かいことなので、気にせずに作品世界を楽しめ、とも思うが、存外こういうのって気になりだすと止まらなかったりしませんか?
posted by 非国民 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月06日

変わらないカタチ

今さらながら巷で話題になっていた白井聡『永続敗戦論』を読む。強烈な既視感とともに。

著者本人が何度も「既に何度も繰り返し論じられて来たことである」と言う様に、ほぼ全編を通じて新たな知見はなく「その話はもう何度も聞いた」感が湧き続ける。

だが一方で提起された問題が解消したわけでは全く無く、問い続けること自体は実は今でも必要なのだ。そういう意味では、こんな論者がいた方が良い。まして状況は悪化する一方で、倒錯した「この国のカタチ」から目をそらしたまま安穏と生きる余地は殆ど残されていないのだから。

私たちはいつまで無能な政府に耐える事が可能なのだろうか。
posted by 非国民 at 21:27| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月05日

究極のハードSFは意外にしっとりした読後感。

グレッグ・イーガン『ディアスポラ』を読了。ハヤカワ文庫2005。巷のレビューには「SF史上最も難解な作品」だの「イーガンファンよ喜べコレは今までで一番読み難い」だのと相当な言われ様だが、本当にその通りだ。例えて言うなら、ミモレットとか鰹節みたいなジャンルなのかな。極上品ほど堅い。

読み難い理由はいくつかある。例によって些かひねくれた構成もさることながら、未来の技術や概念が全く説明なしにいきなり出て来る。きっとこういうことかと推測しながら読み進む事になる。簡単に外挿出来るほど近い未来の話ではない、にもかかわらずだ。それから個人的には数学的な思弁について行けないというものつらかった。リーマン空間とかフーリエ変換とか、ごく当たり前に出て来るんだけど、もう覚えてないんだよ本当に。ああ情けない。

なんだかんだ言って、私自身はほぼ一月ほど掛かってコレを読み通した。読み通した自分を「軽く凄い」とさえ思うが、でも一方で、間違いなくそれだけの価値はある。読んでよかった。

一つのテーマを追い求めて行くというスタイルではなく、むしろ様々なエピソードの集積として本書は成立しているのだけれど、生命というものの有り様に関するイーガンの考え方がとにかく独特で面白い。特筆すべきは短編「ワンの絨毯」にも出て来る<オルフェウスのイカ>。自己触媒的に生成し続ける巨大分子が自然発生的なチューリングマシンと化し、その中でソフトウェアとして進化し意識を持つに到った<生命>。外界の物質的な世界とはいかなる意味でも関わりを持たないこうした<生命>が、本書では奇特な例外としてではなく、むしろ普遍的な一般性とともに描写される。硅素生物がどうこうという話とは、色んな意味で次元が違い過ぎる。

異質な生命とのコンタクトという点では『ソラリス』にも通じる点があるけど、本書の場合、そもそも私たちの馴染んでいる「肉体人」がほぼ登場しないので、世界観としての類似は薄い。『ディアスポラ』は肉体人のコピーとしてではなく最初からソフトウェアとして産み出された主人公の、宇宙の果て(無限に存在する可能世界の中の一つの果て)にまで到る冒険譚だ。

長い長い(の200乗ぐらいか)旅の果てに突如訪れるエンディングの味わいが、とにかく良い。驚愕のどんでん返しではなく、むしろあっさりした終わり方ではあるのだが、全く予想していなかった結末であるにもかかわらず、ああやっぱりこれ以外には無いよなあ、と腑に落ちる。コンタクトしないで終わるファーストコンタクトもの、というか、もはや何をもって「コミュニケーションの成立」とみなすかが問われる次元にまで到る旅だ。些か煙に巻かれた感はあるが、そのしっとりした読後感は、内容的にはほぼ無縁ながら安部公房の『密会』に近いと感じた。

唯一にして最大の不満は、こんなに読み難くする必要があったのか、という点だ。
posted by 非国民 at 02:04| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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