たまたま本屋で見かけた『コスプレする社会』(成実弘至[編],せりか書房2009)を読了。これが結構面白い。コスプレそのものにもコスプレという現象にも縁の薄かった私だが、ここ何年か東京ドームシティで仕事をする機会が多く、最近は結構な頻度でいわゆるコスプレを間近で見てきた。最初はただ驚くばかりだったが、見慣れてくるにつれ「一体アレは何なんだろうなあ」という漠然とした興味が湧いてきたところの一冊である。
副題に「サブカルチャーの身体文化」とあるが、こちらの方が本書の内容を的確に示しているように思う。実際、狭義の(いわゆる)コスプレに関する考察は少なめで、それ以外はイレズミの民俗学、ヤンキー文化論、制服文化研究、ドラァグクイーンへのインタビュー、女装コミュニティのエスノグラフィー、などなど、広義の「異装」をめぐるテーマが、やや雑多に扱われている。まあ、それぞれ面白いから良いんだけど。
なかでも惹かれたのがジェンダーとの絡み。コスプレという文化実践が「過剰さによる価値の無効化」を果たしているという指摘が、なかなか鋭く面白いと思えた。コスプレが、伝統的に女性的なものとされてきたメイクや裁縫といった技術に支えられているにもかかわらず、その「やり過ぎ」が、結果として「女性らしさ」を超越させるという逆説。
性別を越境する「自己表現」としての女装、というもの実に興味深かった。こちらも、私には殆ど知識のない領域だが、奥は深そうだ。もう少し掘り下げて勉強してみようかなと思う。
面白いとか興味深いとか書くと不謹慎なようだが、こういった研究は、面白ければそれだけで充分に存在価値があるということで、ひとまず。
【追記】
これを書いた翌日、さっそく世界が変容した。
昨日までとは違う世界
2011年10月16日
2011年02月26日
歴史マニアさまざま
読書という悪癖だけは治らない。現場の空き時間なんかに本を読んでいると「どんな本が好きなんですか」と尋ねて来る粋狂な人が時折いる。どんな、と言われても、こちらは乱読雑読の単なる活字中毒なんで、もとより人様に自慢出来るような趣味だとは思っていない。面倒くさいので「歴史の本なんか、よく読みますねえ」とか何とか適当にお茶を濁していると、突如として目の色を変える人種がいる。
しまった、と思っても既に遅い。彼らは歴史マニアだ。しかも結構多い。
とはいうものの、歴史マニアの類型はそれほど多くない。目の色を変えた彼らが滔々と熱く語るのは、殆どの場合、戦国武将と幕末の志士と帝国海軍の興亡、この三つに集約される。それはもうびっくりする程の類型ぶりで、この国の歴史マニアにとっては要するに「歴史=戦史」なのかとさえ思う。
ここで「被差別民と白山信仰の繋がりが・・・」とか言い出そうものなら、再び彼らの目の色が変わり、当方はすっかり「奇人」扱いとなる。
何でこんなことを言い出したかというと、最近読んだ藤木久志の『雑兵たちの戦場』が滅法面白かったからだ。朝日選書2005。農業だけでは食って行けず、農閑期に戦場を渡り歩いては食い扶持を稼ぎ、あるいは略奪した雑兵たちの群像。奴隷として海外へ売られて行った者も少なくない。当時日本にいたスペイン人やポルトガル人の多くは、戦国の世の日本を「内戦」と表現している。言われてみりゃ、まあその通りで、ちょっと新鮮だった。
戦国時代に多少なりとも興味がある人なら絶対に読んで損は無い本だと思うのだが、こういう話題で盛り上がれる相手は少ないんだろうなあ。
ちなみに、歴史マニアだけが取り立てて面倒くさいわけでは無い。「SFなんか、よく読みますねえ」と言うと、更に面倒くさい事態に陥ることがあるのを私は知っている。
しまった、と思っても既に遅い。彼らは歴史マニアだ。しかも結構多い。
とはいうものの、歴史マニアの類型はそれほど多くない。目の色を変えた彼らが滔々と熱く語るのは、殆どの場合、戦国武将と幕末の志士と帝国海軍の興亡、この三つに集約される。それはもうびっくりする程の類型ぶりで、この国の歴史マニアにとっては要するに「歴史=戦史」なのかとさえ思う。
ここで「被差別民と白山信仰の繋がりが・・・」とか言い出そうものなら、再び彼らの目の色が変わり、当方はすっかり「奇人」扱いとなる。
何でこんなことを言い出したかというと、最近読んだ藤木久志の『雑兵たちの戦場』が滅法面白かったからだ。朝日選書2005。農業だけでは食って行けず、農閑期に戦場を渡り歩いては食い扶持を稼ぎ、あるいは略奪した雑兵たちの群像。奴隷として海外へ売られて行った者も少なくない。当時日本にいたスペイン人やポルトガル人の多くは、戦国の世の日本を「内戦」と表現している。言われてみりゃ、まあその通りで、ちょっと新鮮だった。
戦国時代に多少なりとも興味がある人なら絶対に読んで損は無い本だと思うのだが、こういう話題で盛り上がれる相手は少ないんだろうなあ。
ちなみに、歴史マニアだけが取り立てて面倒くさいわけでは無い。「SFなんか、よく読みますねえ」と言うと、更に面倒くさい事態に陥ることがあるのを私は知っている。
2011年02月06日
リベラル・イスラームの射程
小川忠『テロと救済の原理主義』(新潮社2007)を読了。原理主義をめぐる諸問題のみならず、いわばもう一方の極であるリベラル・イスラームの思想的系譜が丁寧に論じられている。後者は日本で紹介される機会が少ないだけに興味深い。
民主主義とその価値を擁護し男女同権の社会を目指すイスラーム運動「リベラル・イスラーム・ネットワーク」なんて、素直に凄いと思う。恥ずかしながら私は全く知らなかった。
考えてみればキリスト教徒だって、ファナティックな宗教右派からリベラルな常識人まで様々いる訳で、事情はイスラーム教徒だって同じということだろう。当たり前のことなんだけど、なかなか気付かない点ではある。そういえば、かつてタリバンがバーミヤンの石仏を破壊したとき、世界のほとんどのムスリムは「いかなるイスラームの教えによっても正当化され得ない暴挙だ」と眉を顰めていた。その良識を侮ることは出来まい。
特に惹かれたのが、イスラームと政教分離原則は両立し得ると説いたエジプトのイスラーム学者アリー・アブドゥッラーズィクの議論。
世界がイスラームを信じ、イスラームの信仰の下で一体化することは有り得るかも知れない。しかし世界が一つの統治形態を選び、一つの政治的統一の下に置かれるということは、人間というものの性質からしてあり得ない。また、そうせよとはコーランには書かれていない。
彼が著書『イスラームと統治の諸規則』でこう主張したのは実に1925年のことだ。何と頼もしい良識だろうか。同時代の極東では既成教団がこぞって天皇神格化のプロセスに加担し、あるいは出口王仁三郎の大本霊学や田中智学の日蓮主義が擬似的な<公共宗教>を目指していたことを思えば、その先駆性は注目に値する。
民主主義とその価値を擁護し男女同権の社会を目指すイスラーム運動「リベラル・イスラーム・ネットワーク」なんて、素直に凄いと思う。恥ずかしながら私は全く知らなかった。
考えてみればキリスト教徒だって、ファナティックな宗教右派からリベラルな常識人まで様々いる訳で、事情はイスラーム教徒だって同じということだろう。当たり前のことなんだけど、なかなか気付かない点ではある。そういえば、かつてタリバンがバーミヤンの石仏を破壊したとき、世界のほとんどのムスリムは「いかなるイスラームの教えによっても正当化され得ない暴挙だ」と眉を顰めていた。その良識を侮ることは出来まい。
特に惹かれたのが、イスラームと政教分離原則は両立し得ると説いたエジプトのイスラーム学者アリー・アブドゥッラーズィクの議論。
世界がイスラームを信じ、イスラームの信仰の下で一体化することは有り得るかも知れない。しかし世界が一つの統治形態を選び、一つの政治的統一の下に置かれるということは、人間というものの性質からしてあり得ない。また、そうせよとはコーランには書かれていない。
彼が著書『イスラームと統治の諸規則』でこう主張したのは実に1925年のことだ。何と頼もしい良識だろうか。同時代の極東では既成教団がこぞって天皇神格化のプロセスに加担し、あるいは出口王仁三郎の大本霊学や田中智学の日蓮主義が擬似的な<公共宗教>を目指していたことを思えば、その先駆性は注目に値する。
検索用:Ali Abdel Raziq
2010年07月03日
ハードボイルド者の弱点
再び桐野夏生。『グロテスク』が凄かったので、今度は『OUT』を読んでみた。
結構評判になった本で、実際かなり売れたらしい。所謂ベストセラーには興味が湧かないタチなので、ちょっとどうかなとは思ったが、書店で手にしてみると『親指P』の松浦理英子が解説を書いていて(今回も濃いなあ)、そういうことならと読み始めた。
やっぱりこの作家は凄い。読んでいて気持ち悪くなるほどだが、どうしても読み進めずにはいられない。本当に、よくもまあこんな気持ち悪い話を思い付いたものだと、まずそのことを畏怖する。
私のハードボイル度は高い。一昨年の診断では「フィリップ・マーロウ・タイプ」だ。しかし、概してハードボイルド者は女に弱い。色仕掛けに、という意味ではなく、何て言うんだろう、本気でへヴィーな女の決意、その生き様に接した時に、耐性が低い。
男が毀れて自滅していく様は平気で座視出来るが、女が毀れゆくプロセスを正視するのは堪え難いのだ。そして、毀れつつ地獄を目指す女(と男)の姿を、微に入り再に入り執拗に描き出したのが『OUT』だ。それでいて、ただドロドロと辛気くさい訳じゃなくて、その突き抜けた生き様には、ある種の爽快感すら漂っている。
案外こういうのが、究極のハードボイルドなのかも知れない。男が粋がってハードボイルドなんて言ってるのは、まだまだ甘い。そんな感慨すら覚えた。
それにしても、こんな面白い本を仕事が立て込んでいる時に読むもんじゃないな。この歳になると寝不足は堪える。
結構評判になった本で、実際かなり売れたらしい。所謂ベストセラーには興味が湧かないタチなので、ちょっとどうかなとは思ったが、書店で手にしてみると『親指P』の松浦理英子が解説を書いていて(今回も濃いなあ)、そういうことならと読み始めた。
やっぱりこの作家は凄い。読んでいて気持ち悪くなるほどだが、どうしても読み進めずにはいられない。本当に、よくもまあこんな気持ち悪い話を思い付いたものだと、まずそのことを畏怖する。
私のハードボイル度は高い。一昨年の診断では「フィリップ・マーロウ・タイプ」だ。しかし、概してハードボイルド者は女に弱い。色仕掛けに、という意味ではなく、何て言うんだろう、本気でへヴィーな女の決意、その生き様に接した時に、耐性が低い。
男が毀れて自滅していく様は平気で座視出来るが、女が毀れゆくプロセスを正視するのは堪え難いのだ。そして、毀れつつ地獄を目指す女(と男)の姿を、微に入り再に入り執拗に描き出したのが『OUT』だ。それでいて、ただドロドロと辛気くさい訳じゃなくて、その突き抜けた生き様には、ある種の爽快感すら漂っている。
案外こういうのが、究極のハードボイルドなのかも知れない。男が粋がってハードボイルドなんて言ってるのは、まだまだ甘い。そんな感慨すら覚えた。
それにしても、こんな面白い本を仕事が立て込んでいる時に読むもんじゃないな。この歳になると寝不足は堪える。
2010年05月28日
泰子フリーク
ちょっと前のことだが、とある仕事仲間と二人で飲んでいたら渡邉泰子さんの話になった。と言っても若い方は御存知ないだろうか。東京電力に勤めていて円山町のアパートで殺された女性である。もう10年以上も前の事件だ。
その仕事仲間は自分を<泰子フリーク>なのだと言う。どうしても他人事とは思えず、泰子さんの生き様が頭から離れないのだと。彼女は歳も泰子さんと同じだという。生きていれば50代というわけだ。
彼女いわく、世の中に<泰子フリーク>というのは結構いるらしい。少なくとも彼女の同年代の間では時折出会うことがあると言う。
ちょっと意外だった。私はそんな人に今まで会ったことが無かったからだ。まあ私が男だという事情もあるのだろうが、そんな話を人としたことも無かった。その時はどんな経緯で泰子さんの話題になったのか、酔っていたせいもありよく思い出せない。
彼女は「泰子さんは殺されることで救われたんじゃないかな」と言うが、それは些か分かり難い感想ではあった。女性だからそう思うのか、あるいは彼女がクリスチャンだから、だろうか。分かるような気もするが、しかし救われなくても生きていた方が良いんじゃないかと、男で仏教徒の私は思った。
実は私も軽度の<泰子フリーク>だ。佐野眞一のルポを読み、円山町の迷宮を彷徨い、事件のあった線路脇のアパートの前に佇んだこともある。
そんなことがあって改めて調べるうちに、桐野夏生がこの件を取材して『グロテスク』という小説を書いていることを知った。名前を聞いたことはあるが読んだことの無い作家だ。フィクションだからあまり関係ないかな、と思いながら書店で文庫本を手にすると斎藤美奈子が解説を書いていて、それなら、と読み出した。
一気に引き込まれた。今まで知らなかったことが悔やまれる。凄い作家がいたものだ。
欲と憎しみに隅々まで汚染され誰もが醜く病んだ世界。それでも目をそらすことが出来ない。これこそが私の生きるこの世界なのだと思わずにはいられない。そんな確かな手触りを感じる小説だった。
泰子さんが夜毎おでんを買ったコンビニは、今ではもう無い。
その仕事仲間は自分を<泰子フリーク>なのだと言う。どうしても他人事とは思えず、泰子さんの生き様が頭から離れないのだと。彼女は歳も泰子さんと同じだという。生きていれば50代というわけだ。
彼女いわく、世の中に<泰子フリーク>というのは結構いるらしい。少なくとも彼女の同年代の間では時折出会うことがあると言う。
ちょっと意外だった。私はそんな人に今まで会ったことが無かったからだ。まあ私が男だという事情もあるのだろうが、そんな話を人としたことも無かった。その時はどんな経緯で泰子さんの話題になったのか、酔っていたせいもありよく思い出せない。
彼女は「泰子さんは殺されることで救われたんじゃないかな」と言うが、それは些か分かり難い感想ではあった。女性だからそう思うのか、あるいは彼女がクリスチャンだから、だろうか。分かるような気もするが、しかし救われなくても生きていた方が良いんじゃないかと、男で仏教徒の私は思った。
実は私も軽度の<泰子フリーク>だ。佐野眞一のルポを読み、円山町の迷宮を彷徨い、事件のあった線路脇のアパートの前に佇んだこともある。
そんなことがあって改めて調べるうちに、桐野夏生がこの件を取材して『グロテスク』という小説を書いていることを知った。名前を聞いたことはあるが読んだことの無い作家だ。フィクションだからあまり関係ないかな、と思いながら書店で文庫本を手にすると斎藤美奈子が解説を書いていて、それなら、と読み出した。
一気に引き込まれた。今まで知らなかったことが悔やまれる。凄い作家がいたものだ。
欲と憎しみに隅々まで汚染され誰もが醜く病んだ世界。それでも目をそらすことが出来ない。これこそが私の生きるこの世界なのだと思わずにはいられない。そんな確かな手触りを感じる小説だった。
泰子さんが夜毎おでんを買ったコンビニは、今ではもう無い。
2010年01月13日
杜撰な辺境論
nafchieさんに借りた内田樹の『日本辺境論』(新潮新書2009)。借りといて文句を言うのもなんだが、ちょっと酷すぎる。本を読んでいてここまで不愉快になったのは久しぶりだ。つくづく内田さんとはノリが合わないらしい。
本書に関しては、あまりにも論の立て方が杜撰ではないかと思う。最初のほうでは、もっぱらアメリカと日本を比較して日本の特殊性を強調しているが、アメリカもまた相当に特殊な国なのだという点を一応は踏まえた上で論じるのでなければ説得力が無さ過ぎる。それにアメリカ人こそは、そのルーツにおいて辺境の民ではなかったか。
そもそも世の中のほとんどの民族は辺境民なのだという事実を内田さんはどう考えているのだろうか。古今東西、世界の至る所で、それぞれの辺境的境遇の下に多様な辺境的文化が存在しているのである。そのことを全く顧慮することなく、日本の辺境性と特殊性を結びつける言説とは何なのだろう。垣間見えるのは、人間の営みの多様性に対する信じ難いほどの無関心でしかない。
決定的なのは、「民族」と「国民」の悪質な混同である。本書でうんざりするほど繰り返される「私たち日本人」というフレーズは、殆どの場合において「日本列島を故地とし日本語を話す民族集団」という意味で用いられている。奈良平安時代のエピソードが「日本人」の特徴を示す例として語られている点からも、それは明らかである。
それだけなら、ああ内田さんの言う「私たち日本人」に俺は入らないなあ、で済むのだが、同じ「私たち日本人」が「日本国民」を意味している場合もあって、途端に話がややこしくなる。その点を曖昧にしたまま「日本人」と「アメリカ人」を単純に比較するのは無理があるのじゃなかろうか。さらに言えば、本書で内田さんは「フランス人」を終始一貫して「近代以降のフランス共和国市民」という意味で用いている。この場合、「日本人」と「フランス人」の比較に、一体どのような意味があるのだろうか。俗流比較文化論だとしても、適切な比較がなされなければ有益な知見を得ることは出来なかろう。
特に結論もないままに終わるこの本が漠然と発しているのは、良くも悪くも「日本人」は世界に類例を見ない特殊な文化を有しているのだという無邪気なイメージであり、同時に、それをよしとする現状肯定への決意である。
これで「昔は良かった」とか言い始めたらもう完璧だよなあと思いつつ読み進めて行ったら、終盤で本当にそうなってしまった。もはや言葉も無い。
ちなみに、本書で多少なりとも面白いと思えたのはレヴィナスの時間軸論に関する部分だが、これはタイトルとは全く関係無い。辺境論としては、最初から最後まで杜撰なままだった。
本書に関しては、あまりにも論の立て方が杜撰ではないかと思う。最初のほうでは、もっぱらアメリカと日本を比較して日本の特殊性を強調しているが、アメリカもまた相当に特殊な国なのだという点を一応は踏まえた上で論じるのでなければ説得力が無さ過ぎる。それにアメリカ人こそは、そのルーツにおいて辺境の民ではなかったか。
そもそも世の中のほとんどの民族は辺境民なのだという事実を内田さんはどう考えているのだろうか。古今東西、世界の至る所で、それぞれの辺境的境遇の下に多様な辺境的文化が存在しているのである。そのことを全く顧慮することなく、日本の辺境性と特殊性を結びつける言説とは何なのだろう。垣間見えるのは、人間の営みの多様性に対する信じ難いほどの無関心でしかない。
決定的なのは、「民族」と「国民」の悪質な混同である。本書でうんざりするほど繰り返される「私たち日本人」というフレーズは、殆どの場合において「日本列島を故地とし日本語を話す民族集団」という意味で用いられている。奈良平安時代のエピソードが「日本人」の特徴を示す例として語られている点からも、それは明らかである。
それだけなら、ああ内田さんの言う「私たち日本人」に俺は入らないなあ、で済むのだが、同じ「私たち日本人」が「日本国民」を意味している場合もあって、途端に話がややこしくなる。その点を曖昧にしたまま「日本人」と「アメリカ人」を単純に比較するのは無理があるのじゃなかろうか。さらに言えば、本書で内田さんは「フランス人」を終始一貫して「近代以降のフランス共和国市民」という意味で用いている。この場合、「日本人」と「フランス人」の比較に、一体どのような意味があるのだろうか。俗流比較文化論だとしても、適切な比較がなされなければ有益な知見を得ることは出来なかろう。
特に結論もないままに終わるこの本が漠然と発しているのは、良くも悪くも「日本人」は世界に類例を見ない特殊な文化を有しているのだという無邪気なイメージであり、同時に、それをよしとする現状肯定への決意である。
これで「昔は良かった」とか言い始めたらもう完璧だよなあと思いつつ読み進めて行ったら、終盤で本当にそうなってしまった。もはや言葉も無い。
ちなみに、本書で多少なりとも面白いと思えたのはレヴィナスの時間軸論に関する部分だが、これはタイトルとは全く関係無い。辺境論としては、最初から最後まで杜撰なままだった。
2009年11月19日
私はモダニストだったのかもしれない
小熊英二の『<民主>と<愛国>』を読了。新曜社2002。丸山眞男、竹内好から吉本隆明、小田実へと到る「戦後思想」を、個々の論者の戦争体験に遡って読み起こし、戦後日本におけるナショナリズム言説空間の変遷を辿った力作である。
力作は結構だが、本としての体裁はもう少しどうにかならなかったのだろうか。ハードカバーで996頁の一冊づくりだ。内容の濃さとは別に、媒体である紙の質量がリアルに重い。せめて上下巻に分けようとかいう配慮は無かったのか。私は作家でも研究者でもない。読書に専念するような仕事場も書斎もない。本を読むのは専ら寝床の上か電車の中である。私のような都市下層民を、版元は読者として想定していないのだろうか。新曜社さんは良質な本を多く出している出版社だと認めるが、今回ばかりは「お呼びでない」と言われているようで不愉快だった。
それはともかく、戦争体験と一口に言っても決して均質なものではなく、世代や階層、あるいは住んでいた地域によって「戦争」の受け止め方は様々であり、それが「戦後思想」における世代間、階層間の確執に繋がっているという視点はなかなかに新鮮であり、面白かった。吉本隆明の分かり難さの原因が、少しだけ分かったような気がした。そして丸山眞男をちゃんと読まなきゃなあ、と今さらながら思ったことも白状しておく。
世代による思想的スタンスの相違、と言うことで思い出したのが、少し前に読んだ大塚英志と東浩紀の対談『リアルのゆくえ』(講談社現代新書2008)。対談中、大怩ェ執拗に東に絡むのだが、東の方は「そのような言われ方をするのは心外だ」という態度を崩さず、幾度となく議論は空転する。私自身は1968年の生まれだから、世代的には大怩謔閧燗撃フ方にずっと近い筈なのだが、何故かここでの議論に関しては東の戸惑いよりも大怩フ苛立ちの方が良く分かる。
68年生まれの私と71年生まれの東を隔絶する、何か決定的な事象があるのだろうか。それとも単に私が古いのだろうか。
力作は結構だが、本としての体裁はもう少しどうにかならなかったのだろうか。ハードカバーで996頁の一冊づくりだ。内容の濃さとは別に、媒体である紙の質量がリアルに重い。せめて上下巻に分けようとかいう配慮は無かったのか。私は作家でも研究者でもない。読書に専念するような仕事場も書斎もない。本を読むのは専ら寝床の上か電車の中である。私のような都市下層民を、版元は読者として想定していないのだろうか。新曜社さんは良質な本を多く出している出版社だと認めるが、今回ばかりは「お呼びでない」と言われているようで不愉快だった。
それはともかく、戦争体験と一口に言っても決して均質なものではなく、世代や階層、あるいは住んでいた地域によって「戦争」の受け止め方は様々であり、それが「戦後思想」における世代間、階層間の確執に繋がっているという視点はなかなかに新鮮であり、面白かった。吉本隆明の分かり難さの原因が、少しだけ分かったような気がした。そして丸山眞男をちゃんと読まなきゃなあ、と今さらながら思ったことも白状しておく。
世代による思想的スタンスの相違、と言うことで思い出したのが、少し前に読んだ大塚英志と東浩紀の対談『リアルのゆくえ』(講談社現代新書2008)。対談中、大怩ェ執拗に東に絡むのだが、東の方は「そのような言われ方をするのは心外だ」という態度を崩さず、幾度となく議論は空転する。私自身は1968年の生まれだから、世代的には大怩謔閧燗撃フ方にずっと近い筈なのだが、何故かここでの議論に関しては東の戸惑いよりも大怩フ苛立ちの方が良く分かる。
68年生まれの私と71年生まれの東を隔絶する、何か決定的な事象があるのだろうか。それとも単に私が古いのだろうか。
2009年09月24日
双方向性メディアの帰趨
『近代天皇制と国民国家━━両性関係を軸として』という本(早川紀代、青木書店2005)を読んでいて、結構面白い。定価は4500円と張るが、私は高円寺の古本屋で購入。
「明治初期における両性の関係をめぐる議論」と題された章では、当時の新聞の投書欄を丹念に参照しているのだが、この頃の新聞は今とは随分違う。不勉強にして私はその辺のことを全然知らなかったので新鮮だ。
この頃の新聞には大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)があった。前者は天下国家の政論が中心で、読者は官員、士族、豪農、学生などの知識層。「東京日日新聞」「朝野新聞」「郵便報知新聞」「横浜日日新聞」「日新真事誌」「改進」などがこれにあたる。後者は、女性や子ども、下層労働者を読者層として、身近な話題を分かりやすく談じたもの。小新聞の代表は「読売新聞」であった。別に読売を馬鹿にしているわけでは無い。普通選挙どころか憲法も議会も無い時代だから、下層平民が政治に興味を持つといっても自ずと限度があり、小新聞の存在意義も小さくはなかったと想像する。「読売新聞」の創刊号には「此の新ぶん紙は女童のおしへにもと精々有為になる事柄を誰にでも解るように書てだす趣旨でござりまするから・・・」との記述がある。漢文調の大新聞に比べて読売の紙面は口語に近く、振り仮名も付いていて、実際に女性の読者も多かったという。実は朝日新聞も小新聞であるが、明治の初期にはまだ大阪限定の新聞で、本書では参照されていない。
当時はまだ「取材報道」は一般的ではなく、編集者による「論説」と読者の「投書」が新聞の二大コンテンツであった。全紙面の実に三分の一から時には半分近くが「投書欄」で占められていたのである。投書者は往々にして複数の新聞に投書しているし、投書者どうしによる論戦も盛んに行われている。黎明期における新聞紙面は、書き手と読み手が渾然一体となって作り上げているという感が強い。現に、攻撃された編集者を庇う投書が陸続と寄せられたケースもある。
明治の初期、新聞とは双方向性のメディアだったのだ。これは読者の絶対数が少なかったから可能だったとも言えるが、黎明期のメディアという意味ではブログと比較して考えるのも面白いかもしれない。
一方通行のメディアとしては既に終焉を迎えつつある今日の新聞、今後はどこへ向かって行くのだろうか。読者層を限定することで双方向性を持ったメディアへと回帰するのか。そんなことことが可能なのか。はたまたブログ文化の行く末はいかに。規模の拡大と寡占によって、権威主義を伴った一方通行のメディアへと進むのか。
ちなみに、今日に残っている新聞はほとんど全てが「小新聞」の系譜である。事実上政府の官報であった「東京日日新聞」が「毎日新聞」に繋がっているのが唯一の例外で、他の大新聞は一つ残らず明治政府の弾圧によって潰されてしまった。
「明治初期における両性の関係をめぐる議論」と題された章では、当時の新聞の投書欄を丹念に参照しているのだが、この頃の新聞は今とは随分違う。不勉強にして私はその辺のことを全然知らなかったので新鮮だ。
この頃の新聞には大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)があった。前者は天下国家の政論が中心で、読者は官員、士族、豪農、学生などの知識層。「東京日日新聞」「朝野新聞」「郵便報知新聞」「横浜日日新聞」「日新真事誌」「改進」などがこれにあたる。後者は、女性や子ども、下層労働者を読者層として、身近な話題を分かりやすく談じたもの。小新聞の代表は「読売新聞」であった。別に読売を馬鹿にしているわけでは無い。普通選挙どころか憲法も議会も無い時代だから、下層平民が政治に興味を持つといっても自ずと限度があり、小新聞の存在意義も小さくはなかったと想像する。「読売新聞」の創刊号には「此の新ぶん紙は女童のおしへにもと精々有為になる事柄を誰にでも解るように書てだす趣旨でござりまするから・・・」との記述がある。漢文調の大新聞に比べて読売の紙面は口語に近く、振り仮名も付いていて、実際に女性の読者も多かったという。実は朝日新聞も小新聞であるが、明治の初期にはまだ大阪限定の新聞で、本書では参照されていない。
当時はまだ「取材報道」は一般的ではなく、編集者による「論説」と読者の「投書」が新聞の二大コンテンツであった。全紙面の実に三分の一から時には半分近くが「投書欄」で占められていたのである。投書者は往々にして複数の新聞に投書しているし、投書者どうしによる論戦も盛んに行われている。黎明期における新聞紙面は、書き手と読み手が渾然一体となって作り上げているという感が強い。現に、攻撃された編集者を庇う投書が陸続と寄せられたケースもある。
明治の初期、新聞とは双方向性のメディアだったのだ。これは読者の絶対数が少なかったから可能だったとも言えるが、黎明期のメディアという意味ではブログと比較して考えるのも面白いかもしれない。
一方通行のメディアとしては既に終焉を迎えつつある今日の新聞、今後はどこへ向かって行くのだろうか。読者層を限定することで双方向性を持ったメディアへと回帰するのか。そんなことことが可能なのか。はたまたブログ文化の行く末はいかに。規模の拡大と寡占によって、権威主義を伴った一方通行のメディアへと進むのか。
ちなみに、今日に残っている新聞はほとんど全てが「小新聞」の系譜である。事実上政府の官報であった「東京日日新聞」が「毎日新聞」に繋がっているのが唯一の例外で、他の大新聞は一つ残らず明治政府の弾圧によって潰されてしまった。
2009年07月12日
唐崎夜雨が気になって
『運動会と日本近代』という本を読んでいて、これがなかなか面白い。
明治期における小学校の運動会が詳しく紹介されているのだが、その種目が凄い。「二人三脚」「障害物競走」「綱引き」なんかは今でも行われている種目だが、その先に「旗倒し」「俵送り競争」「騎兵戦闘」「敵陣占領」「中隊教練」と続くプログラムを見ると、運動会の起源はコドモ軍事演習であったかと深く納得せざるを得ない。
そこには、国民の身体を調教するという公教育の目的が明確に顕示されているのだ。いずれナショナリズムの枠組みへと回収されるその視点は、訓練と規律を通してこそ徹底される。
何故私は運動会が嫌いだったのか。単にスポーツが苦手だというだけではないその本当の理由が、ここにあるのかも知れない。
一方では「電話架設」「春日和」「唐崎夜雨」なんて種目も記録されていて、今となってはどのような競技だったのか想像もつかない。何なんだろう唐崎夜雨って・・・
明治期における小学校の運動会が詳しく紹介されているのだが、その種目が凄い。「二人三脚」「障害物競走」「綱引き」なんかは今でも行われている種目だが、その先に「旗倒し」「俵送り競争」「騎兵戦闘」「敵陣占領」「中隊教練」と続くプログラムを見ると、運動会の起源はコドモ軍事演習であったかと深く納得せざるを得ない。
そこには、国民の身体を調教するという公教育の目的が明確に顕示されているのだ。いずれナショナリズムの枠組みへと回収されるその視点は、訓練と規律を通してこそ徹底される。
何故私は運動会が嫌いだったのか。単にスポーツが苦手だというだけではないその本当の理由が、ここにあるのかも知れない。
一方では「電話架設」「春日和」「唐崎夜雨」なんて種目も記録されていて、今となってはどのような競技だったのか想像もつかない。何なんだろう唐崎夜雨って・・・
2009年06月05日
理想の美人
谷本奈穂の『美容整形と化粧の社会学』(新曜社2008)という本を斜め読み。何となく“当世美容整形事情”みたいな軽めのルポを予想してたんだけど、実はタイトル通り真っ当な社会学の専門書だった。エスノメソドロジーの手法も踏まえつつ、明治期以来の化粧品広告におけるイメージやコピーを丹念に読み解いた正調社会学。それが悪いって訳じゃもちろん無くて、ただ私がちょっと驚いただけ。
終わりの方に海外の実情についても簡単に触れられていて、これがなかなか興味深かった。いまや台湾は(韓国ほどではないにしても)相当な美容整形大国と化しているのだ。大陸や香港はもとより、広く世界中から美容整形を望む華人が台湾へとやって来るらしい。
大陸の医者は技術の面で信用が低いし(まあこれは何となく理解出来る)、香港の医者は概して保守的で美容整形をやりたがらない(これは意外だった)ので、多くの人が大陸や香港から台湾に集まることになる。
それは分かるとしても、アメリカやヨーロッパからさえも少なくない華人が美容整形を望んで台湾にやって来るという事情やいかに。アメリカにもヨーロッパにも腕の良い医者は沢山いるだろうにと思うが、ことはそう簡単ではないらしいのだ。
要は「アジア人が持つ<理想の美人>観を白人の医者は理解してくれないのではないか」という疑念が、彼女ら(*1)を台湾に集めている、ということのようなのだ。
確かに考えてみれば大いに有り得る話だろう。「美人」を成立せしめている諸々のパラメーターは、所詮文化の産物だから、分からない人には分かりっこない。この狭い日本列島でだって、<理想の美人>観は時代によって随分と変遷して来た。いまだって世代や地域によってかなり違うだろう。
してみると、美容整形というのもなかなか難しい仕事なのだな。単に腕が良いだけではダメなのか。
*1「彼ら彼女ら」と書くべきところであろうが、本書での調査対象は女性のみであった。
終わりの方に海外の実情についても簡単に触れられていて、これがなかなか興味深かった。いまや台湾は(韓国ほどではないにしても)相当な美容整形大国と化しているのだ。大陸や香港はもとより、広く世界中から美容整形を望む華人が台湾へとやって来るらしい。
大陸の医者は技術の面で信用が低いし(まあこれは何となく理解出来る)、香港の医者は概して保守的で美容整形をやりたがらない(これは意外だった)ので、多くの人が大陸や香港から台湾に集まることになる。
それは分かるとしても、アメリカやヨーロッパからさえも少なくない華人が美容整形を望んで台湾にやって来るという事情やいかに。アメリカにもヨーロッパにも腕の良い医者は沢山いるだろうにと思うが、ことはそう簡単ではないらしいのだ。
要は「アジア人が持つ<理想の美人>観を白人の医者は理解してくれないのではないか」という疑念が、彼女ら(*1)を台湾に集めている、ということのようなのだ。
確かに考えてみれば大いに有り得る話だろう。「美人」を成立せしめている諸々のパラメーターは、所詮文化の産物だから、分からない人には分かりっこない。この狭い日本列島でだって、<理想の美人>観は時代によって随分と変遷して来た。いまだって世代や地域によってかなり違うだろう。
してみると、美容整形というのもなかなか難しい仕事なのだな。単に腕が良いだけではダメなのか。
*1「彼ら彼女ら」と書くべきところであろうが、本書での調査対象は女性のみであった。