2009年05月22日

もうひとつの世界

米本和広の『洗脳の楽園』という本を読んだ。宝島社文庫1999。サブタイトルに「ヤマギシ会という悲劇」とある通り、農事組合法人ヤマギシ会のカルト性と、そこで行われている「洗脳」を鋭く告発した内容だ。

ヤマギシ会については通り一遍の知識しか持ち合せていなかったので、本書の描くその実態については、正直「ここまでやるか」と驚いた。その様相は、連合赤軍からオウムへと到る<虚構の時代>の裏道を行き着くところまで行ってしまった、一種の極限かとも思う。

本書は、ルポルタージュとしては間違いなく一級の仕事だが、後半での「分析」には些かの疑問も残る。ヤマギシ憎しのあまり論点がズレてはいまいか。

著者は「ヤマギシの住人は<脳内に浮かんだユートピア>に住んでいる」と批判するが、はっきり言ってそれだけなら殆ど全ての宗教団体について言えることだ。「教団」というのは単なる信者の集合体ではない。俗世あるいは現世と全く別の位相に広がる「もうひとつの世界」なのだ。観念的なユートピアを提示することで宗教は求心力を維持し得る。ちなみに私が仏教徒でありながら特定の教団に属さないのは、その求心力を嫌うせいでもある。

観念的なユートピアにおいては、全ての人が幸せであることが想定されていて、現実に幸せでない人は「理論的にはいない筈の人」として排除されてしまう。これもまた多くの教団で見られる現象だ。

だから「<脳内に浮かんだユートピア>に住んでいる」という指摘は「ヤマギシ会は農業コミューンではなく宗教団体だ」と言っているだけに等しい。そして、宗教団体だというだけでは批判したことになっていない。

カルトとしてのヤマギシ会、その反社会性を糾弾するのなら、例えば法外な金銭的搾取や物理的な拘禁を伴う洗脳行為などこそを徹底して批判すべきであろう。

本書の初版(洋泉社)は1997年。そこそこ昔の本である。現在のヤマギシ会はどうなっているのだろう。俄に興味が湧いて来た。当ブログの常連は博識が揃っているから、誰か教えてくれないかなあ。
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2009年05月03日

不条理ギャグの愉しみ、あるいは己の俗物性について

妙な行きがかりで(最近そういうのが多いなあ)立花晶の『サディスティック・19』というマンガを読んでいる。これが結構面白い。乙女ちっく不条理ギャグ、とでも言うのだろうか。無駄にかわいらしい絵柄とシュールでブラックなネタ、その乖離が、どうやら私のツボらしい。

ところで、この作品は『花とゆめ』という雑誌に連載されていたそうだ。はてどこかで聞いたような聞かないようなと記憶を辿る。

思い出した。四半世紀も前の話だ。

高校のとき、同じクラスに松尾(仮名)という男がいて、彼がこの『花とゆめ』を毎号買って読んでいた。たしか『マーガレット』も読んでいたっけ。

格別親しかったわけでもなく、彼とマンガの話をしたことはなかったように思う。私自身も当時はマンガに全く興味が無かった。ただ、いい歳した男が少女マンガを楽しむという現象が理解出来ず、そんな彼のことを「ずいぶん変わったヤツだなあ」と(自分のことを棚に上げて)決めつけていた。

四半世紀を経て、今ここに認識を改める。松尾(仮名)は「ほんの少しだけ変わったヤツ」だったのかも知れない。

『サディスティック・19』は面白いのだが、さりとて本屋に行って『花とゆめ』を買うことには、やはり抵抗がある。まだまだ小物だなあ俺も。
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2009年01月10日

懐かしの週間本

新年最初の記事が昔話で恐縮だが、かつて「週間本」というのがあった。ちょうど私が高校生の頃だ。朝日出版社から出ていた新書サイズのペーパーバックで、値段も新書なみ。単行本と雑誌の雑種みたいなノリで、毎週一冊発行、増刷は無しで初版が売り切れたらそれっきりというシリーズだ。ちょっとでも気になったら「買わなきゃ」と思わせる強迫が、確かにそこにはあった。かくいう私も、マメに本屋を覗いては買い込んだものだ。

いつの間にか出なくなって、寂しいなあとは思ったが、深く追求することもなく、そのうち気にしなくなった。結構マニアックなラインナップだったから朝日出版社も遂に倒産したかな、なんて漠然と思っていた。

つい先日、調べもののついでに引っ掛かってWikipediaの記述を読んで、本当に驚いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E6%9C%AC
週間本は、たったの一年間しか出ていなかったのだ。全部で45冊。

 1. 山口昌男『流行論』
 2. 田中康夫『感覚の論理学』
 3. 日比野克彦『HIBINO SPECIAL』
 4. ジミー・ネルソン『ワード・ウォッチ アメリカの流行を読む』
 5. ニンカム・プープ『女子大生を責めないで 』
 6. 坂本龍一『本本堂未刊行図書目録 書物の地平線』
 7. 平岡正明『河内音頭・ゆれる』
 8. オフプリント『'85幸福手帖』
 9. オフィス01『ダブルスクール術』
 10. 四方田犬彦『映像要理』
 11. ニンカム・プープ『反風俗営業法 世紀末性戦争の行方』
 12. ピブリック『インゴロジー入門 その筋言語のプロ知識』
 13. 篠山紀信『微分』
 14. 立松和平『デジャ・ヴュ』
 15. 細野晴臣+吉成真由美『技術の秘儀』
 16. 中上健次『都はるみに捧げる 芸能原論』
 17. 磯崎新『ポスト・モダン原論 』
 18. 橋本治『根性』
 19. 今川忠雄『少女現象』
 20. 太田眞一『長島茂雄のユートピア』
 21. 島田雅彦『認識マシーンへのレクイエム』
 22. 小田晋『グリコ・森永事件 21世紀型犯罪を分析する』
 23. 尾辻克彦『超プロ野球 集中力の精神工学』
 24. 泉麻人+みうらじゅん『無共闘世代 ウルトラマンと骨肉腫』
 25. 岸田秀『希望の原理』

 26. ねじめ正一『咲いたわ咲いたわ男でござる』
 27. 秋山さと子『メタ・セクシュアリティ』
 28. 野々村文宏+中森明夫+田口賢司『卒業 Kyonに向かって』
 29. 筑紫哲也『新人類論』
 30. 渡辺和博『ホーケー文明のあけぼの』
 31. 嵐山光三郎『黄金意識』
 32. 川崎徹+中野収ほか『大学学』
 33. 藤本義一『サンキューとベリマッチ』
 34. 伊藤比呂美『知死期時 近松と馬琴と南北と』
 35. フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎 agencement '85』
 36. 丹生谷貴志『天使と増殖 Ding an sich』
 37. 鴻上尚史『SAY-SHO! 世間は甘い』
 38. 高杉弾『霊的衝動 100万人のポルノ』
 39. 四方田犬彦+平岡正明『電撃フランク・チキンズ』
 40. 岡田節人+田原総一朗『細胞に刻まれた未来社会』
 41. 山口勝弘『パフォーマンス原論』
 42. 天野祐吉『巷談コピー南北朝』

 43. 山崎浩一『山崎浩一ひとりマガジン 早熟のカリキュラム 近未来少年少女倶楽部』
 44. 一倉宏『ユーク たとえば日曜日の午後6時の小さな国』
 45.渋谷篤弘『構造主義生物学原論』

45の『構造主義生物学原論』だけはハードカバー仕立てになっているが、背表紙には週間本45と書いてあるので、シリーズの一環(にして終焉)ということになる。それにしても濃いラインナップだなあ。コレが全部、増刷なしの初版売りきりなんて、今考えても勿体ない。ちなみにオレンジの文字は私が持ってるやつ。本棚を漁って見たら17冊もあった。後になって古本屋で買い集めた記憶はないから、全てリアルタイムだ。我ながらミーハーな高校生だと思う。学校の勉強には全く付いて行けないくせにアカデミックな雰囲気への憧れだけは捨て切れない半端者には、この辺が丁度手頃だったのかも知れない。

もっとも、今こうしてみると、私はドンピシャでリアルタイムだったわけでは無く、かぶっているのは後半だけらしい。16の中上健次なんて、本屋で目にしていれば買わなかったはずがないし、事実私が週間本の存在を知った時には既に入手不可だった。そう考えると、17冊所有というのは相当ハマった部類に入るだろう。ちょっと遅れて来た週間本の世代だ。

正直に白状すると、当時面白おかしく読み漁ったこれらの週間本がどれだけ私の骨肉となったかという点は、恥ずかしながら甚だ心もとない。今の私の生き方や考え方に大きな影響を与えたとは言い難いし(むしろそういうのは中学生の時に読んだ本のほうが多い気がする)繰り返し何度も読んだのは40と45ぐらいかも知れない。

週間本の世代は、アカデミックな雰囲気を商品として消費してしまう(ひょっとしたら最初の)世代でもあったのだ。その悪癖だけは今でもしっかり残っていて、例えば『異装のセクシュアリティ』だの『コルセットの文化史』だのといった「ちょっと頭良さげで手頃な」タイトルを見ると、つい買ってしまったりする。
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2008年09月06日

誰のための道徳か

「母性」だの「母性愛」だのが嫌いだ。自分で口にするのも嫌だし、(たとえ悪気はないにしても)そういうものを無邪気に持ち出してしまう人を、どうしても信用する気になれない。

こんなことを今さら言うまでもないが、ちょっと面白いものを読んだので走り書き。

川村邦光「靖国と女」(『戦死者のゆくえ』青弓社2003所収)。実に面白かった。戦前、戦中の婦人雑誌(という呼び方もアナクロだが当時の用語に倣って)の表紙や口絵、あるいは記事を丹念に参照しつつ、軍国の母、九段の母をめぐる表象と語りを読み解いた力作である。特筆すべき新知見がある訳では無いが、その丁寧な読みは相応の説得力がある。

「母性」の喚起する気持ち悪さを端的に示しているのが、例えば「主婦之友」1945年4月号に掲載された高村光太郎「皇国日本の母」。
皇国日本の母の愛の美しさは、この本能愛を内に熱く抱きながら、又内に熱く抱くがゆゑに、人倫至高の絶対愛に溶け入つてゆく無私無欲無念無想の恍惚心にある。義は君臣にして情は親子なる、現人神に一切を捧げまつる至誠おのづから我が子をおん預かりものとさへ思ふ。死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極致である。

ああ不愉快。

日本の近代史上、もっとも強く母性や母性愛が力説されたのが、まさしくこの時代だった。もちろんそれは偶然では無い。母と子の観念的は紐帯は、明らかに戦争とともに強調され称揚されたのだ。そして結局は、恣意的なジェンダー規範が男あるいは国家によって都合よく仕掛けられ、期待されていたのである。

この戦争で命を落とした兵の中には、国家のため天皇のためではなく、愛する身近な者のために戦地へ向かった者もいるだろう。だとすれば、勇ましく喧伝された「日本の婦道」は決して空虚なスローガンなどではなく、まさしく実践思想として確かに機能したのだ。だからこそ、無警戒に「母性」を持ち上げる人を、私は信用出来ない。

ついでに言えば、純潔だの貞操だのといった言葉も私は大嫌いだ。それ自体が悪いことだとは思わないが、見ず知らずの人にそれを説く厚かましさは持ち合わせたくないし、人から説かれたくもない。

再び「主婦之友」より。1943年1月号で母性保護同盟委員長の山田わか(与謝野晶子の宿敵だったらしい)が、こう書いている。
皇軍の強いのは銃後の女性の堅固なる貞操観念に負ふところ多大であるといふ、世界が認めてゐる日本女性の誇り

やっぱり行き着くのはそこかい。

国家が強要する道徳なんて、所詮はそんなものだ。下らないったらありゃしない。
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2008年08月03日

赤塚不二夫の観察眼

その昔『広告批評』という雑誌に「顔の研究」というのが載ってて、これが面白かった。本棚を掻き回していたら出て来たので、突然の訃報に茫然としつつ読み返す。いま読んでも、その観察眼と諧謔は超一流だ。

 美空ひばり 
この人の顔は戦後の日本人が作ったのだ。シルクハットをかぶって歌っていた時代の顔が懐かしいし、可愛い。日本の民主主義も同じだ。
赤塚不二夫 
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2008年05月14日

溶融する世界

バリー・コリンズの『審判』という本を読んだ。劇書房1979。
凄い本だという評判で以前から読みたかったんだけど、絶版でなかなか手に入らず、吉祥寺の古本屋で見つけて即買い。

一応これは戯曲、ということになっている。実際に上演もされている。だが、いわゆる会話劇ではない。一人芝居、すなわち登場人物は一人だけの戯曲だ。

敵軍の捕虜となって地下室に閉じ込められた7人の将校。敵軍は彼らを置き去りにして行く。再び侵攻して来た自軍によって発見されるのは60日後。そこには骨と化した5人の骸と2人の生存者があった。閉じ込められた彼らは、同僚を殺してその身体を食べることで命をつないでいたのだ。生き残ったうちの1人は発狂状態で、もはや尋問に応じられる状態ではない。残る一人、アンドレイ・ヴァホフが、この戯曲の登場人物である。舞台は法廷。判事であるところの観客を前にして、彼は延々と語り続ける。その告解とも回想とも抗弁とも呪詛とも証言ともつかぬモノローグは、上演時間にして約2時間半にも及ぶ。

あまりにも重たい内容、時には活字を追うだけで気分が悪くなって来るほどの具体的な描写。その陳述を読みながら、私が考えていたのは、「事実を語ること」の途方も無い難しさだった。閉ざされた地下室で何が起こったのか、どういう経緯で殺し合いその身体を食べるに到ったのか、どうやってその順番は決定されたのか。事実を語れるのは彼一人しかいない。だからこそ判事=観客(むろん読者である私)も、何が起こったのかを知りたい。彼に事実を語ることを、求める。

しかし、それが絶望的に難しい。「事実」と「事実の解釈」は渾然一体となって、ヴァホフの口から述べられる。決して話をはぐらかそうという意図ではない。彼は冒頭で、自分は間違いなく有罪だと言う。そして「有罪だと、申し開きをしたいのです」と続ける。結局のところ、彼には、彼の物語を語ることしか出来ない。誠実に語れば語るほど、そこには事実の解釈が入り込む。

事実だけを語る言うのなら、はっきりしている事実は、他の5人が死んで彼が死ななかったということであり、それはヴァホフが語るまでもない。自らの死を受け入れた者、受け入れなかった者。その手を血で汚した者、汚さなかった者。彼らがどういう気持ちで死んで行ったのか、それはヴァホフにも分からない。それでもなお、そこに触れずには、ヴァホフ自身も自らの有罪を語り得ない。

人間というのは、どうしても解釈しないではいられない存在なのだろう。事実だけを語ることなど、本当は出来ないのかも知れない。申し開きの最終場面でヴァホフはこうも言う「あなたがたにとっての問題は、私をどうするかということでありましょう」。では判事たる観客そして私は、何をもってヴァホフを裁くのか。その根拠は、やはり事実でなく事実の解釈に過ぎないのではないだろうか。

事実と事実の解釈は全く別物だ、当たり前のようにそう思って生きて来たが、この本を読みながら、そんな自分の足元が音もなく融け崩れて行く気分を味わった。
posted by 非国民 at 18:14| Comment(13) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月06日

漢字が読めなくて

 
こちらのコメント欄kuronekoさんが教えてくれた『料理の起源』という本を読んだ(中尾佐助1972,NHKブックス)。これが滅法面白い。結構古い本なのに、私にとっては知らないことばかり。ものすごく勉強になった。近頃ではこういう研究は流行らないんだろうか。それとも単に私が無知なのか。

この分野に関してどれだけ私が不勉強なのかを思い知らされるのが、漢字。もう情けないくらいに読めない。古い本だから、今では使わない様な漢字が出てくるのかな。つったって、1972年の本だ。生まれる前の話ではない。やっぱり私が無知なのか。

まず作物の名前が読めない。コメ、ムギ、アワくらいは読めても、ヒエ、キビになると、もう読めない。ふりがなが付くのは最初に出てきた時だけだから、悔しいけど基礎教養のレベルなんだろう。粳米ウルチマイ、糯米モチマイも読めなかった。こういうの、全部カタカナで済ませてきたからなあ。

道具の名前も読めない。ウスは読めてもキネが読めなかった。恥ずかしい。カゴは読めたけど、フルイ、ザル、コシキは全敗だ。に至っては、ふりがなが振ってあっても、それが何なのか全く分からない。

ノゲも読めなかった。覚えたのに忘れてしまったという字では無いと思う。生まれて初めて見る漢字じゃなかろうか。そもそもノゲが何なのかを全く知らないのだから、最初からカタカナで書いてあっても分からない。つまり、見たことも聞いたことも無い言葉なのだ。稲作というものを基本的に知らないんだから、どうしようもない。

ホシイイ、カタガユ、シトギ、もちろん読めないが、さすがにこれは古語だろう。70年代に普通に使われていた漢字とは思えない。思いたくない。

いずれにせよ、これはまだまだ勉強せにゃあかんなあということで、『稲作の起源』(池橋宏2005,講談社)なんて本も買ってしまった。道は遠い。
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2007年12月16日

Mの世代

今更ながら、浜井浩一/芹沢一也『犯罪不安社会』を読了。光文社新書2006。安原さんのところで紹介されていたのを読んでさっそく買ったのだが、ついつい後回しにしていたのだ。

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posted by 非国民 at 05:02| Comment(5) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月17日

『夕鶴』のテーマ

知り合いが『夕鶴』をモチーフにした作品に関わるというので「ああ、貨幣経済が農村共同体を破壊していくという話だよねえ」と言ったら、思いっきりキョトンとされてしまった。途中を端折り過ぎたかなあ。
それとも、そういう読みは、あまり一般的ではないのだろうか。なまじ社会学など齧ったおかげで物語を素直に読めないのかも知れない。
posted by 非国民 at 00:07| Comment(14) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月18日

女性コミックってのは、どの辺がどう女性なんですか?

以前大勢の方にお叱りを受けたことがありまして、以来少しずつマンガの世界を覗き見ている非国民です。

最近気付いたのですが、世にコミックと呼ばれるものは、男性コミックと女性コミックに大別されるようなのです。そして私には、この区分が良く分からない。。。

男性の描いたものが男性コミックというわけでは無さそうだし。男性が読むから男性コミックというわけでも無いだろうし、だいたい、そんなの読む方の勝手だろうし。
概ね出版社別というか、初出雑誌によって区別されているようなのだが、何のためにそんな区別が必要なんだろうか。

例えば、私自身は外見も自認も男性な訳だが、そんな私が読んでいるものを見ると、女性コミックに分類されそうなものが多い。それがどうなのかと言えば、少なくとも私自身にとっては、全くどうでもない。私の周囲には同様な傾向を持つ人が少なくないし、まあ類が友を呼んだという可能性もあるが、つまり、そんな区分けは最初から意味が無いのだ。

強いて勘ぐれば、「主たる読者に男性を想定している作品」が「男性コミック」なんだろうけど、それって随分と不便なシステムなんじゃないかと思う。変な言い方だが「産業的」っていうか、ターゲットを絞った商品開発戦略みたいで、どうにも味気ない。
どうして「主たる読者」にどちらかの性を想定しなきゃならんのか。読みたい人が読みたいものを読めば良いじゃないですか。

活字本の世界に、そんな理不尽な棲み分けは無い。
女流文学という言い方はあって、私はそれも好きじゃないが、それはまあ女性が書いた文学というだけの意味だ。「女性文学」とか「男性文学」とか言ったりはしない。

もっとも、ネタとしては面白そうですね。
夢野久作は女性文学か男性文学か。何となく女性っぽい? 
筒井康隆はきっと男性文学だ。坂口安吾もそうかなあ。
倉橋由美子はどうだろう。男性っぽいけど、『ポポイ』は美少年モノだから女性文学かなあ。
松浦理英子は? 花村萬月は? 沼正三は? 中上健次は? 姫野カオルコは?

どんどん分からなくなって来る。
posted by 非国民 at 11:35| Comment(6) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする